エルダー2020年10月号
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2020.1040﹇第95 回﹈慶応4(1868)年は、9月8日に改元されて「明治」となった。その2カ月前に「江戸」は「東京」と地名変更されていた。しかし、蓮月尼は相変わらず幕末と同じような生き方をしていた。自分で土をこね、窯かまでそれを焼き、その前に自作の歌を彫り込むという作業である。そして、これを焼き物の市場に持って行って売った。その代金が、蓮月尼の生活費になった。一時期は、弟子入りをした富岡鉄てっ斎さいが、土をこねたり窯で焼いたり、あるいは市場への持ち運びの労役を分担してくれた。しかしかれは、血の気の多い青年で国事に奔ほん走そうし、蓮月尼の脇に居いたばかりだったので、戦った両軍の戦死者の弔とむらいの気持ちを含め、「聞くままに 袖こそぬるれ道のべに さらす屍かばねは誰が子なるらん」という歌を詠み、それをつくって市場に出すきびしょ(急きゅう須す)に彫りつけたばかりだった。かつて取った杵きね柄づかで、窯から頃合いを見て焼いた物を取り出した鉄斎は、その歌をきびしょの表面で読んだ。「あの戦いくさのこともご存知でしたか」そういう鉄斎に、蓮月尼は黙って頷いた。蓮月尼にとって、合戦は、「傍そばにいてほしい人を失う争い」であって、嫌いだ。だから、鉄斎が興奮して、新政府の味方をし、自分もその軍に加わろうと逸はやるのることにいたたまれなさを感じて、飛び出して行った。蓮月尼は、改元の日も、(肩に羽の生えた鉄斎さんは、いまどこにいるのやら)と、一人笑った。ところが、その鉄斎が戻って来た。「お師匠さま、ずいぶん探しましたよ」と、多少文句をいった。というのは、蓮月尼は〝屋越しの蓮月〞のあだ名通り、引越しばかりするからである。ここに落ち着くまでに、すでに岡崎、大仏、北白川、また岡崎、聖しょう護ご院いんと転々とし、ようやく西加茂の神じん光こう院いんの一間を借りたばかりだった。鉄斎が来たとき、ちょうど蓮月尼は一月初しょっ端ぱなの〝鳥羽・伏見の戦い〞の話を聞飛び出した弟子

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