エルダー2020年11月号
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2020.1128[第96回]〝不肖の息子〞という言葉がある。意味は、「親に似ない息子」のようだ。徳川秀忠は、家康の三男で、家康が1603(慶長8)年に取得した〝征夷大将軍(俗に「将軍」)〞のポストを、2年後の1605年に譲られた。世の中はあっと驚いた。特に、家康に味方し、関ケ原の合戦で手柄を立てた旧豊臣系の大名たちは呆あっ気けにとられた。秀忠は合戦に間に合わず天下の嘲わらい笑者だったからだ。しかし、その秀忠には支持者もいた。それは、今後の日本社会の行く末を先読みして、「この国は、家康公によって平和に経営される。そのときのトップリーダーは、やはり平和向きな人物の方が相応しい」という読みであった。事実はその通りになるが、将軍就任当時の秀忠は悩み、土井利勝という側近の宿老に相談した。利勝は、「名二代目をお集めになり、話をお聞きになったらいかがでしょうか」と進言した。秀忠はこれに乗り、「名二代目の会」を設けた。最初の会に秀忠は、「幽ゆう斎さい」の名で文化大名の名を高めていた細川藤孝の息子・忠ただ興おきを招いた。そして、「これこれの趣旨で、こういう会を開く。最初にあなたからいろいろお話をうかがいたい」といった。忠興の方は、すでに情報を得て秀忠の意図を事前にキャッチしていた。腹を据えて、「上様(秀忠)のおたずねには、何事も隠すところなくお答えいた二代目将軍の悩み

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