エルダー2021年1月号
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2021.132[第98回]江戸末期に、徳川幕府は大きな財政改革を行った。白河藩主・松平定信が展開した「寛政の改革」は、単に財政再建というだけではなく、「幕臣の叩き直し(国家公務員の再教育)」という目的も加えられていた。そのために、「学問吟味(人材登用試験)」が設けられた。これに率先受験の意思を示したのが、旗本の大田直次郎だ。大田直次郎は、別に蜀しょく山さん人じん、四よもの方赤あか良ら、山やま手て馬ば鹿か人ひとなどというペンネームで、それまで狂歌や戯げ作さくの世界で、一、二を争う文名を馳せていた。幕府の役人といえば、現在の国家公務員だ。「役人がそんなことができるのか?」と、いまなら疑問をもたれるに違いない。しかし徳川時代は、江戸城に勤務する役人の給与が安いので、自宅における「副業」を認めていたからである。大田直次郎も、心からそっちの方面で名を上げたくはなかったが、かれの所属組織は「小こ普ぶ請しん」といって、「無役」なので、幕府はやむを得ずこういう状況を是認していたのである。したがって、直じき参さんの身でありながら文名を高める連中の多くは、「現状不満」的な気持ちをもっていた。能力を認められて、役があればそんなことはしないのだ。大田も同じだった。しかし、第一回目の試験では直次郎は落ちた。これは幕府側でも、直次郎の文名を知っていたので、あるいは懲らしめの意味があったのかも知れない。五十歳を過ぎて、直次郎はもう一度チャレンジする。そしぶんぶぶんぶと夜も寝られず

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