エルダー2021年2月号
33/68

エルダー31ジョイした。「本当にやりたいこと」というのは、騒がしくなった日本の国際問題の解決に、「真の国防論」をまとめて、幕府・諸藩・国民の目を覚まさせるということである。根は愛国者なのだ。象山はいつも「おれは日本のナポレオンだ」と豪語していた。それだけでなく、「だからおれの子をたくさん増やせば、日本は優秀な民族国家になる」と唱え、賛同する女性を求めている。吉田松陰にアメリカ密航をすすめたのも、日本に開港を迫るペリーを憎み、しきりに「アメリカを打ち払え!」と叫ぶ松陰を次のように諭さとしたためだ。• 外国と争うにはその国のことをよく知らなければダメだ• その国のことを知るためには、その国のことを書いた書物を読み、実際に自分の目でたしかめなければならない• そのためには何よりもその国の文字・言語をマスターする必要がある「吉田君、いまの君にその力があるのか?」と問い、「なければ実際にアメリカに行ってこい」と告げたのだ。このころは日本はまだ鎖国していたので、密航は大罪であり扇せん動どう者しゃ※も同じ罪になる。松陰は国元で牢に入れられた。蟄居を隠居と同じだと象山がいうのには、それなりの理由があった。まず蟄居場所が牢ではない。親しい知人が「自由に使ってくれ」と、別荘を提供してくれた。藩も寛大で訪問者の出入りを黙認した。文通もかなり寛大だった。象ペリーもおじぎした山は好条件を活用した。自分の考える国防論を幕府の改造論を含めてまとめた「省せい諐けん録ろく」だ。反省する、という意味だが、反省などまったくしていない。「俺は正しい、幕府は間違っている」という論旨で一貫している。象山の著書のなかで最もすぐれたものとして、研究者の評価は高い。象山が蟄居したのは安政元(1854)年のことで、解放されたのは文久2(1862)年である。8年の幽囚生活だった。しかし果たして幽囚生活といえるのかどうか。象山は世間一般の基準からすれば〝奇人〞の類に入るだろう。それを保護するのは保護者自身も覚悟している。そうさせる何かが象山にはあった。私はそれを象山の「国を思う誠心」だと思っている。ペリーが日本にやって来たとき、松代藩は警護を命ぜられた。象山は参謀を命ぜられた。ペリーは浦賀に上陸した。音楽隊を先頭に、「これを見よ」とばかりにペリー隊は堂々と行進してきた。が、松代藩兵の前で停止した。ペリーが一人の武士に向かって深く頭を下げた。相手は象山だった。象山の顔は異様で日本人離れしている。耳がないように見える。ペリーはビクともせずに自分を凝視する象山を、(さぞかし日本の高官だろう)と思ったという。このときの象山は、「松代藩は、アメリカ軍の乱暴から日本を守るのではなく、日本人の乱暴からアメリカ軍を守れ」と命ぜられて、カンカンに腹を立てていた。※ 扇動者……そそのかして、人にある行動をとらせるようにしむける者

元のページ  ../index.html#33

このブックを見る