エルダー2021年3月号
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エルダー21性、舅しゅうとの虐待に耐え切れなくなった嫁などのよき相談相手となり、「どうしても家に戻りたくない女性は、天秀さんが自費でひそかに養っています」まめに天秀の消息を伝えにくる東慶寺の住職はそう語る。そして「私の後は天秀さんに継いでもらうつもりです」と言葉を添えた。天樹院は喜んだ。秀頼の忘れ形見が、そういう形(弱い者の味方)として、この世で活躍してくれることが天樹院にとって何よりも嬉しかったからだ。天樹院も会うたびに天秀に、「弱い人の支えになってね」と必ず声をかける。住職の話を聞くたびに天秀が自腹を切っている費用をそっと渡した。「娘には内緒にしてくださいね」心での声援は送っても過度の保護はするまい、と決めていた。寺への干渉になるからだ。ただ最近の天樹院は、「行き所のない、弱い立場にある人々の収容施設が必要だ」と考えていた。天秀がひそかに行っている弱者庇護の話から得たヒントだった。このへんは、やはり一時期天下人(国政担当者)だった秀頼の妻(ファーストレディ)としての、責務感が残っているのだ。機会がきた。寛永20(1643)年、会津(福島県)の加藤家で、当主の明あき成しげが重心の堀主もん水どと争うという事件が起きた。堀は家臣を引き連れて城から撤退し、城に向かって発砲した。江戸に向かい明成の暴挙を公表した。怒った明成は主水の追伐を命じた。主水は高野山に逃げたが家族は置き捨てにされた。高野山は執拗な明成側の交渉に屈し、ついに主水を会津藩に渡した。明成は家族の捕縛を命じた。主水の妻は子どもを連れて逃げ回っていたが、ついに窮した。このとき、「鎌倉の東慶寺さんが、そうい東慶寺を幕府公認の駆け込み寺にう駆け込みをかくまってくださる」という話を聞いた。主水の妻はためらわずに東慶寺に駆け込んだ。対応したのは天秀で、寺の住職になっていた。「大名家の争いにはかかわらないでください」寺の人間の多くがそういったが、天秀は首を横に振った。「大名の家臣の家族も同じです。救いましょう」毅然としてそう告げた。すぐ江戸城に向かった。天樹院は、竹橋御門の脇に住んでいた。会って訴えた。天樹院は、「それでこそわが娘です」と天秀の勇気を褒めた。そして、「表(幕府)の問題にします」と、この問題の表面化を約束した。吟味が始まった。対決の結果、主水の主張が正しいことがわかった。加藤家は取り潰しになった。主水の家族は救われた。このとき、天樹院はつちかった政治力をフルに発揮した。東慶寺に「寺を駆け込み寺とする」という「寺内法」を用意させ、幕府に公認させた。弟の将軍家光をはじめ、幕府の首脳部が賛同したためだ。天樹院と天秀は心から喜んだ。「母上のおかげです」と天秀。「あなたのがんばりの成果です」と天樹院。数としてはわずかだったが、〝泣き寝入り〞にされていた江戸時代の〝弱い立場の人々〞が救われた。そしてそのたびに、同じ人間を苦しめていた悪しき人間の行いが、世の中に告げられた。天秀はこの2年後に死んだ。36歳。天樹院はそれよりさらに生きて、21年後の寛文6(1666)年に死んだ。69歳。東慶寺はその後、「縁切寺」、「駆け込み寺」と呼ばれ、名を高めた。

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