エルダー2021年4月号
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2021.426﹇第101 回﹈この会のメンバーは3人だ。大田垣蓮れん月げつ・松尾多た勢せ子こ・野村望も東と尼にである。年齢は蓮月が慶応3(1867)年現在、76歳(以下、年齢はすべて満年齢)、多勢子56歳、望東尼61歳だ。生活は蓮月尼が焼き物をつくり、主に急須を焼いた。蓮月尼は〝きびしょ〞と呼んでいる。焼く前に自作の和歌を書きこんだ。これが彼女のCI※1となり、市場ではいつも完売になった。父母は定かではない。いや定かなのだが蓮月が話さない。だから多勢子と望東尼も訊かない。大田垣というのは蓮月の養やしない父おやの姓だ。寺侍だった。蓮月は結婚を二度した。二度とも夫が早死にした。「もう懲り懲り隈くま言こと道みちに和歌を学んだ。勤王心が強く、追われる志士をかくまった。そのなかに高杉晋作がいて望東尼はよく面倒をみた。藩が保守化し望東尼は孤島の姫ひめ島しまに流された。これを知った晋作が救助隊を組織し、救い出して長州で世話をした。晋作は西行法師にちなんで東とう行ぎょうと号していた。望東という法名はその東行を生涯慕うという意味があるという。晋作の臨終にも立ち会っている。晋作は死ぬときに遺言がわりに歌を詠んだ。「面白きこともなき世を面白く…」といって絶句した。望東尼がすぐ、「住みなすものは心なりけり」と続けた。晋作は「面白いのう」といって息絶えた。望東尼さんだ」と思った蓮月はその後は独身を通した。が、美人なのでいい寄る男が多かった。それを避けるため蓮月はよく引越しをした。50数回に及んだという。〝屋や越ごしの蓮月さん〞とあだ名された。年齢を重ねても言い寄る男が絶えなかったので、蓮月は釘抜きで歯を全部抜いてしまった。そういう凄すさまじい根性を持っていた。和歌の面では御所のお公家さんの指導を受けた。評価はかなり高かった。それを急須に書き込むのは、「焼き物は生活用具で使う物です。使うときに私の歌で心が慰められれば、こんな嬉しいことはない」といっていた。下賀茂の神光院の境内に住んでいた。望東尼は九州の福岡藩士の妻だ。やはり二度結婚している。歌人大おおメンバーは3人※1 CI…… コーポレート・アイデンティティ。企業文化を構築し特性や独自性が統一されたイメージやデザイン。また、わかりやすいメッセージで発信し社会と共有することで存在価値を高めようとするビジネス手法。一目見ただけでその企業と認識できるもの

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