エルダー2021年4月号
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エルダー27ん」、「歌詠み婆さん」などと呼ばれた。努力心旺盛で、実現された明治維新を、必ずしも民が望んだものを実現した政治とは思わなかった。そこでよく蓮月尼を訪ねた。蓮月尼のところには若い手伝人がいた。法衣商の息子で富岡鉄斎といった。攘じょう夷い※2熱にかぶれていたので、蓮月尼からはよく「身近なところで、自分のできることでだれかさんを喜ばせなさい。あなたは絵の才能があるじゃありませんか」と助言されていた。3人が集まっても、別にテーマを設けて「どうしよう」などとむずかしい話をするわけではない。会って顔を見合えばそれでいいのだ。和歌といままでの暮らしなどが普通の経験としてある。が、思い出話をするのでなく、「これからだれかさんのために、何をしようか」ということを、お互いのなかから探り合おうという会い方だった。気き障ざないい方をすれば「人間同士の(それも女性の)相乗効果」あるいは「人間同士のフィード・バック(互いに出力と入力になって自分を高める)」ということだった。しかし露骨にそんな言葉を使うわけではなく、そのへんは蓮月尼が年長者としてイニシアチブを執った。「私は井戸水ですよ」と告げていた。世の中が熱いときは冷たく、冷たいときは温かく対応する、〝恒温〞を保つのが井戸水なのだ。明治になってからも参加者はこのことを忘れなかった。望東尼は62歳で幕末に死ぬが、多勢子83歳、蓮月尼は84歳まで長生きする。には申し訳ないが、私には面白くもなんともない。晋作も同じだったろう。かれの遺詠は途中でチョン切れたままの方が、晋作らしい余波を残したと思う。「婆様、余計なことをしてくれた」というのが、私の正直な気持ちだ。望東尼は、晋作が死ぬと京都に出た。京都で望東尼は蓮月を訪ねた。その印象を、「75歳だそうだが50代にしかみえない」と宇野千代さんに会ったような感想を語っている。化粧水を使わない蓮月の肌の美しさに驚嘆したのだ。松尾多勢子は信州(長野県)伊那谷で、豪農の家に生まれ、豪農の家に嫁いだ女性で、50歳までに、妻と女親の責務を全部果たした。隠居後は王事を家業でよく夫を補佐し、子どもを一人前に育てた。「多勢子さんを見習え」といわれながら、若いうちに嫁いだ女性の仕事を完投した。50歳を過ぎて隠居できるようになったとき、「やりたいことがある」といった。「何です?」と子どもたちが訊くと「王事に励みたい」と答えた。娘のころから平田学(勤王学)を学んでいたので、「皇室のために働きたい」というのだ。家族は応援した。京都まで送った。きっかけがあって多勢子は岩倉具とも視みの別邸に入った。具視が世間で悪くいわれて(和宮降嫁の首謀者)いるのに、実際は「天皇思いの忠臣」であることを知った。以後具視のために尽くし、「岩倉家の家宰」、「勤王婆さ※2 攘夷……外国人を追い払って通交しないこと。幕末の外国人排斥運動

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