エルダー2021年5月号
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2021.534﹇第102 回﹈座敷牢を喜ぶ江戸後期の歴史学者で漢詩人の頼山陽は、母親孝行だった。ティーンエイジャー時代にたいへんな面倒をかけたからだ。山陽は号で安芸(広島県)の竹原に生まれ、この地方を総称した山陽をペンネームにしたのだ。親がつけた名は襄のぼる、通称は久ひさ太た郎ろうといった。父の春しゅん水すいは高名な漢学者で安芸藩浅野家の藩儒(藩主に仕える儒学者)だった。が、主として世せい子し(浅野家の次の藩主)の指導にあたっていた。このころの大名の世子はその母親とともに、江戸居住を幕府が命じていたから、世子は江戸に住んだ。いきおい春水も江戸に住む。春水は大坂の医者で儒者の飯いい岡おか義ぎたのが母の静子だ。静子は山陽の性格を、「孤独が好きで、世間の普通の生活には向かない」とみていた。だから座敷牢に入れられて、生まれてはじめての安あん穏のん生活を得たらしい山陽をみて、(久太郎は、こういう暮らしが好きなのだ)と感じた。静子と同じ見方をしたのが、藩主の浅野重しげ晨あきらだった。静子に使いをよこし、「久太郎(山陽)の扱いはまことに適切である。座敷牢を〝仁じん室しつ〞と名づけ、久太郎に寄り添ってやれ。読書筆硯(書き物)の望みがあれば、必ずかなえるように」と指示した。殿さまが、「久太郎に自由な座敷牢生活を斎さいの娘静子と結婚し、男の子(山陽)が生まれたばかりだったが、単身赴任した。その後19年ほとんど江戸で暮らした。たまに広島に帰ってくるが、静子と山陽は現在の母子家庭と同じ生活状態だった。山陽は早熟な少年で九歳のときに藩校へ入ったが、たちまち英才ぶりを発揮した。父の志は修史にあったが山陽はそれを引き継いだ。しかし父不在のせいか、精神は不安定だった。母は懸命に世話をした。山陽は19歳(満)のとき、藩命で江戸勤務になったが、たちまちノイローゼ症状が出て当惑した。叔父の春しゅん風ぷうが帰郷の世話をし、広島に連れて帰った。が、家に座敷牢がつくられ山陽はその中に入れられた。このとき、親身になって寄り添っ

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