エルダー2021年5月号
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エルダー35「先生、こちらがかなり重かさみますが」と、用を足しに厠かわやに向う山陽に、そっと指を丸めてみせた。山陽は笑った。「あの婆さまはオレの母親だが、それ以上に大恩人だ。受けた恩はこんな程度では返しきれない。これからも毎晩パアーッとやるぞ」山陽は天保3(1832)年10月16日に死ぬ。満51歳。静子は11年後に84歳で死んだが、山陽が座敷牢に入っていたときが一番幸福だった。静子が山陽の父春水の妻になったのは20歳のときで、翌年山陽を生んだ。しかし夫は江戸勤務なり、しかも本人の希望で単身赴任。残された静子は周囲から疑惑と猜疑の目で見られる。なかにはズケズケ訊く者もいる。「なぜ江戸にいらっしゃらないの?」「旦那さまと何かおありなの?」思わず、「私の方が訊きたいよ!」と噛みつきたくなる。そのせいか息子の久太郎は神経を傷めた。たまに帰ってくる夫はそんな息子を見て、「お前の育て方が悪いからだ」と静子を責める。「おふざけでないよ!」と手元にある裁縫道具を投げつけたいくらいだ。その夫も70歳でとうに死んだ。情が深かったとは思えない。しかし静子は、(悪い人ではない。世にいう 〝学者バカ〞なのです)と独りで笑ったことがある。孤軍奮闘してきた自分がいとおしかった。京都で騒いだ山陽との夜が忘れられない。(でも、どのくらいお金がかかったのかしら)と気にはするが、すぐ、まあいいでしょうと忘れた。送らせよ」と命じたのだ。よほど山陽の才幹を愛し、また高く評価したのだ。静子はこの日、大喜びで座敷牢へ酒と肴を持ち込んで、「久太郎、お前は殿様公認の囚めし人うどよ。さあ、パアーッと飲みましょう!」とはしゃいだ。山陽は無邪気な母に思わず涙した。そして、(いつかちゃんとした場所で、この母とパアーッと飲むぞ)と決意した。山陽が有名な「日本外がい史し」の草稿を書いたのは、この座敷牢の中においてだ。筆・墨・紙・資料の準備や整理はすべて静子がした。まめまめしく世話をしながら、静子は、「久太郎、たのしいね、頑張ろう」と声をかける。うなずく山陽は、「ありがとう、母上。必ずパアーッとやるからね」と、約束をくり返した。牢暮らし三年で、山陽は許された。しかし家では廃はい嫡ちゃくされた。だが山陽は、逆に元気になった。京都に行き、この都をかこむ山やま脈なみや貫く鴨川の水の美しさを愛した。「山さん紫し水すい明めい処しょ」と名づけた私塾を、鴨川のほとりに設けたのは、文政5(1822)年のことである。山陽は41歳になっていた。それまで文筆・交友による国事奔走に走りまわっていたからだ。ようやく静子を呼んだ。塾に近い三本木の華街で、プロの女性をまじえ、文字通りパアーッと思いきり飲んだ。静子は70歳になっていたが、元気で冗談をいっては席を湧かせた。人気者になった。しかし凄く大盤振舞なので、店が心配した。飲み助婆さん

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