エルダー2021年6月号
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特集コロナ禍や自然災害に立ち向かう働く高齢者の底力エルダー25が亡くなったと聞き、命があるだけよかったと思った。松田さんのご主人は震災の前年に病気で他界していたが、体が不自由であったため、もし、震災に遭っていたら逃げることはむずかしかっただろうと思い、ご主人の旅立ちを受け入れることができた。そして、2人の息子さんが無事であったことが救いであった。「せっかく助かった命だから、大事にしなければと思いました。みんな着の身着のままで、そばにいたお年寄りが寒がっていたので、私は小高い山を下りて、流されていない家に飛び込み、何でもいいですから服をゆずってくださいとお願いしてもらってきました。快くくださったその人には数年経ってからビールを持ってお礼に行きました。よく助けてくれたと思います。人の情けが身に染みて、陸前高田で暮らしてよかったと思いました」と松田さん。市役所庁舎のあったところの仮設住宅にすぐに入って5年ほど過ごした。仮設住宅では気がついたら世話役のようなことをしていたと松田さんはふり返る。5年前に県営住宅に入ることができ、いまは上の息子さんと2人で暮らしている。市からは土地が譲渡されたが、家を建てるつもりはいまのところないという。「県営住宅で暮らして元気に働ければそれでいいと思っています。震災は辛いことも多かったけれど、仮設住宅でも多くの人に助けてもらいました。学んだことも大きいです」と屈託がない。元気に働けることに感謝を松田さんは中学校を卒業すると地元でも有名な文具店で店員として働きながら、定時制高校に通った。当時は文具店のような商店でも住み込みで働くことは珍しくなく、松田さんも住み込みで、店員の仕事以外に朝の炊事当番もこなしていた。定時制を卒業してからも同じ文具店で4年ほど働き、結婚を機に夫と一緒に上京した。「東京といっても都会ではなく、近くに荒川土手がある下町でした。土手を毎日のように散歩して楽しかったです。20代後半に地元へ戻ってからはいろいろな仕事を経験しました。鶏肉の加工屋さんで総菜づくりの仕事をしたことで料理のレパートリーが広がりました。クリーニング店でのアイロンがけやスーパーで清掃の仕事もしました。2013年にキャピタルホテル1000が業務を再開し、高齢でも働かせてもらえることを知り、65歳で面接を受けました。このホテルの事務で相談役のようなことをやっていた義姉からもすすめられました」キャピタルホテル1000は観光の要として地域貢献するだけではなく、雇用の場を創出する役割も果たしていた。開業からは半年ほど遅れたが、それでも11人の応募があり全員採用された。仕事はベッドメーキング。松田さんにとっては初めての経験であったが、すぐに慣れて、どうやったらもっと早くできるか仲間たちとワイワイ話し合うのがとても楽しかったという。また、出勤は9時からだったが、みんなでその前に出社してホテルの周りの草取りをしたという。それを見て「当時の会長さんが『ありがと松田千恵子さん(左)と浅川ゆかりフロアマネージャー(右)

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