エルダー2021年6月号
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2021.634[第103回]尾お高だか惇あつ忠ただは、渋沢栄一の義兄にあたる。妹の千代が栄一の妻だったからだ。1830(文政13)年に生まれ、1901(明治34)年に死んだ。満71歳だった。その生き方は〝生涯青春〞といってよく、一生を通じて情熱的だった。生地は栄一と同じ深谷市(埼玉県)で生家は名主だ。漢学にくわしく栄一をはじめ多くの若者に、儒学を叩きこんだ。幕末時には熱い攘じょう夷い論者で、栄一にも大きな影響を与えた。想像できないが青年栄一も激しい攘夷論者で、幕府を決起させるため高崎城(群馬県)の乗っ取りを計画している。惇忠の感化によるものだ。それでいて徹底した親幕派で、政府軍が江戸城を占領した後は、彰義隊に入って戦った。彰義隊の隊長の一人、渋沢誠一郎は栄一のいとこで、惇忠から多大な思想的影響を受けている。彰義隊は佐賀藩の高速機関銃に敗れた。誠一郎は〝振しん武ぶ軍ぐん〞を編成して関東で戦う。惇忠は参加する。惇忠の行動をずっとみていた栄一が、ある日声をかけた。「お義に兄いさん、徳川家が70万石もらって静岡で大名になった。私が財政を担当する。米以外の農作物を振興したい。手伝ってくれませんか」「いいよ。徳川家とお前のためなら何でもやる」快諾して、「静岡藩勧業付づき属ぞく」という役人になった。栄一はその能力を認められて大蔵省の幹部ポストに。次官大隈重信の懇請だった。税制改正が主務だったが、勧渋沢栄一を育てた漢学者

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