エルダー2021年6月号
37/68

エルダー35しかしかれは障害にあたると凹へこまず、逆に血を騒がせて立ち向かう青春児だ。この場合もそうだった。「よし」解決策を思いついた。実行のため家に戻った。娘のお勇もいた。妻をはじめ家族を全部集めた。「みんなに相談がある」と切り出した。家族は緊張して惇忠を凝視した。惇忠は話した。「お勇を俺の製糸工場で働かせる。そして夜はフランス人の技術者に血を吸わせる」みんなアッと声をあげた。しかし話が全然見えない。「どういうことですか」妻が訊いた。「こういうことだ」惇忠は真実を告げた。みんな笑い出した。妻がお勇に訊く。「どうする」「行きます。私の名は勇気の勇です。こういうときに勇気を出せ、とお父さんがつけてくれたのです」お勇は勇敢だった。「そういう迷信を砕くのに役立つのなら、やり甲が斐いがあります」ともいった。こうして日本最初の官営製糸工場の、女子見習工員第一号は、所長の娘・尾高勇がなった。お勇は働き始めると友人の娘を誘った。さらに友人に友人を誘わせた。次第に応募者が増えた。県内だけでなく、隣接する長野、さらに岐阜などの県からも女工になるために娘たちがやってきた。それも一人ではなく、フタケタの人数がグループでやってきた。理由を知ったポールが、「ブドー酒をやめる」といったが惇忠はとめた。「酒も大事な文化だ。たまには娘たちにも血を吸わせてやってくれ」二人は大笑いした。のちに、この製糸工場が世界文化遺産になったのは有名だ。業も仕事だった。栄一はグループをつくって群馬県富岡に製糸工場を造り、指導をフランスの技術者ポール・ブリューナーに委嘱した。しかし日本人の所長が要る。栄一は深谷で雑貨屋をやっていた惇忠に頼んだ。「お義兄さん、製糸工場の所長を頼みます。得意な藍あいの研究もできますよ」「引き受けた。藍の研究なんかどうでもいい、お前のためなら何でもやる」快諾。栄一の人の活用はうまい。単なる失業救済ではない。相手の持味発揮の場にするのだ。が、赴任した惇忠はいきなり大きな壁にブチあたった。募集している女性工務者に一人も応募者がいないのだ。信じられないので地元の実力者の所に行って訊きいてみ娘の血を吸う製糸工場た。事実だという。理由は? とたずねると、この答えが呆れる内容だった。「技術者が若い日本娘の血をすすっている」という。惇忠はビックリした。「娘の血を?」「そうです。ですから近隣はおろか遠方の地域にも噂が広まって、だれも応募しません。西洋の技術が習えて、いい給料がもらえるのに、惜しいことです」「……」実力者の話を聞いているうちに惇忠は気がついた。攘夷論者だったが、かれもインテリだ。明治になってからドッと押し寄せたヨーロッパ文明の中身のあらましは知っているし、関心もある。そのなかには食料や飲料もある。(ブドー酒だ。娘の血なんかじゃない)そう思った。しかしどうするか。

元のページ  ../index.html#37

このブックを見る