エルダー2021年8月号
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エルダー35ままに、父娘は住居をあとにした。「江戸に戻ってくれば、どうせ引っ越す家だ」と、二人とも思っている。衣食住の三つに、およそ愛着を持ったことのない父娘だ。愛着がないから未練もない。明日は明日の風が吹く。とにかく昨日を忘れ、絵筆一本を握って父娘は生きていく。小布施の高井鴻山は歓待してくれた。絵を欲しがる人は異常に多かった。北斎だけでなく娘の絵へのニーズ(需要)も高かった。北斎はしばしば、「オーイ、今度の客もお前だ」と叫んだ。馴染みのこの里で、二人は大いに栗を楽しんだ。「先生(北斎)じゃありませんよ。お嬢さんの絵ですよ」と、注文者がいってくれるのが、お栄には嬉しかった。この地域には何度も来たのだろう。父の絵を持っている家は多かった。しかし注文者は北斎の娘だからというのではない。北斎から離れた評価をしてくれた。もちろん北斎の方も、次々と画風を変える努力をしているので、新しい作家としてみる好事家もたくさんいる。そういう人たちは父娘二人の絵を欲しがった。北斎は里の人々に、「いま、わしの絵の相場はイクライクラだ」などとは決していわない。「思し召しで結構。何なら栗五粒でもいい」と告げるから、お栄もそれにならう。(長屋の連中に持って帰りたい) ゴミだらけの見捨てた長屋だったが、お栄には懐かしさもあった。それは北斎も同じだったろう。そしてこの里での日々は、父娘にとって得がたい幸福な日々だったに違いない。匂いが残っている」といって、謙信の〝義の精神〞を賞ほめ、北斎の奇人ぶりを愛していた。北斎にとっては得難いスポンサーの一人だった。ちょうど地域の名産・栗の実の収穫が始まるので、「好きな栗飯を食べにおいで」という誘いだった。「娘さんも連れておいで」と添え書きがあった。お栄は喜んだ。旅が好きだからだ。父は本所(東京都墨田区)割わり下げ水すいに生まれ、ずっと下町暮らしを続けてきたので、お栄も下町っ子の気質が強い。「お父っつあん、栗飯だぞォ」と手を振った。「いい年と令しをしやがって、それが六十婆ァのいうことか」「悪かったね、ところでお父っつあんはいくつだっけ?」「とっくに忘れたな。もう仙人みてえなもンだからな」北斎は本当に自分の年齢を忘れていたかも知れない。画風も六度改まっている、といわれる北斎は、まったく一つの画風に停とどまることなく、次から次へと研究を続け、自分の絵の発展を工夫した。その動機にお栄の影響がまったくなかったとはいえないだろう。そのせいかどうか、お栄も北斎が美人画を描くときには、スッポンポンになってモデルを務めたりした。しかし美人画については、「父親の絵より娘の描いた物の方が優れている」と、評価する向きもかなり多かった。竹の皮に包まれた食い残しの惣菜の山、その山の発する腐臭をその栗の里の日々

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