エルダー2021年8月号
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2021.84作家・国文学者 林 望さん林 人間は一朝一夕にして現在の生き方になったわけではありません。何十年と時間をかけていまに至っている。その間に、若いころには「必ずあれをやってみたい」、「こういう人間になってみたい」というさまざまなアンビション=野望があったはずです。それが大学の受験に失敗したとか、何かをきっかけに少しずつ諦め、いろいろなことを諦めた末の人生が定年なのです。だから定年まではそうだったが、その諦めたものの枝葉のなかに、もう一回本当にやりたかったことがきっとあるはずです。自分の過去をよく顧かえりみて、昔はできなかったが、いまはお金も時間もある程度はあるし、習うべき先生を見つけてもう一回やってみようということがあってもよいと思います。―何かをやろうと思ったら「諦あきらめない、怠なまけない、慢心しない」という三つが大切だと説かれていますね。林 諦めないから怠けずにやる。怠けずに一生懸命続けると、自分の進むべき道筋が見えてきて、まだまだ先に行きたいと思うので慢心する暇がないのです。それが人間を進歩させてくれます。若いから進歩する、年を取っているから進歩しない、ということはありません。ここが大事な点です。 例えば、字を書くことは、若いときはそれほど上手ではない人も多いのですが、年を取るとそれなりの味が出てきます。自己流でもよいので、文字を書く練習をもう一回きちんとやり直して、味のある字が書けるように磨きをかける。この味は若い人がいくら練習をしても出せません。和歌や俳句にしても、どんなに才能がある人でも、年を取って独特の佳境に至ったことで詠めるものがあります。人生の苦労を経験している人だからこそ味を出せるものがいくつもあります。そういうことにぜひチャレンジしてほしいと思います。―2021(令和3)年4月から、70歳までの就業機会の確保が企業の努力義務となりました。制度として長く働ける環境は整備される一方で、個人としてどう生きていくのかも問われています。林 どう生きていくかは職種によるでしょう。特殊な技能と経験を持っている、いわゆる職人の仕事のなかには、60歳ぐらいではまだまだ洟はな垂たれ小僧という仕事もあるでしょう。年を取って磨きが出てくることもあり、そうした技を持つ人は本人が働きたい、後進に技を伝えたいと思うかぎりは、いつまでも続けてもらったほうがよいと思います。 しかし、そうではなく、技術革新による仕事の変化に追いつけない人や、変化を求める会社のニーズに応えられない人もいるでしょう。そういう人は場合によってはさっさと早期退職して第二の人生を自分で切り開くという選択肢もあります。なにも国や企業が敷いたレールに乗って生きる必要はありません。自分にとっての幸せとは何かを一人ひとりが考えたほうがよい。組織で働くのが性格的に合わないし、それよりも郷里に帰って晴耕雨読の生活をしたいと思えば、それはそれで結構なことです。残された人生をしっかりと自分で構築することが何より大切だと思います。人の成長・進歩に年齢は関係ない豊かな人生経験が「味」に変わる(聞き手・文/溝上憲文 撮影/中岡泰博)

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