エルダー2021年9月号
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2021.934[第106回] 常ひた陸ちの国くに(茨城県)・水戸といえば、〝黄門様〞の徳川光みつ圀くにの人気が高く、庶民のヒーローになっているが、潜在的にはもう一人、別な人物の人気がいまだ消えない。光圀の生家徳川家の前に、この地方の領主だった佐竹家への追つい慕ぼだ。 源氏の血統で源頼朝に仕え、功があったので常陸国内に領地を与えられ、以来数百年その治政は地に浸みた。1600(慶長5)年の関ヶ原合戦直後、徳川家康によって突然秋田に移封された。家康にも石田三成にも味方しなかったからだ。 当主は佐竹義よし宣のぶ三十歳、隠居の父・義重五十歳だった。伏見城に呼び出された義宣はこのことを家康から宣告されると、承知し故郷(水戸)の父に手紙を書いた。 「伏見から秋田に直行します。父上は先行し、新しい城の候補地、城下町の計画、家臣団の選定などをお手配ください。細部はお任せします」 義重は思わず「ウヒヒ」と喜んだ。 義重は独特な〝隠居観〞を持っていた。 「男は隠居後に本当にやりたいことができる」 現役(当主)のあいだはルーティン・ワークに追われて、本当にやりたいこともできない。だから早く隠居する、という考えだ。だから四十二歳のときに早々と隠居した。やりたいことをやるには金が要る、といって二十万石余の隠居料は確保していた(当時の佐竹家の収入は六十万石余)。 が、今度の移封で佐竹家の収入常陸での佐竹人気

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