エルダー2021年9月号
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エルダー35 (俺はどうするかな) もちろん秋田でも隠居料を確保し、〝自分のやりたい仕事〞に力を注ぐつもりでいる。盆栽いじりや碁将棋で時間を潰す気は毛頭ない。頭のなかには家康への対抗意識がある。 (あの爺にもあるはずだ) 義重はそう思っている。いままで佐竹家の経営を安定させるために、義重はかなり苦労してきた。そのために〝本当にやりたい仕事〞ができなかった。 家康は底意地が悪い。秋田転封は命じたが、収入についてはまったく示さない。秋田の郡村のどこで、何万石なのか数字を出さない。佐竹家では記録を調べ、 「大体二十万石程度ではなかろうか」 と推測しているが、それも当たっているかはずれているか、確証はない。 ある夜、義重は作業で働く職人の頭かしらから帆立貝の殻を鍋代わりにして、なかにハタハタ(魚)と野菜を煮立てる料理を教えられた。食って、これはイケると喜んだ。 明治維新後、奥羽・北陸地方の大名家は同盟を組んで新政府に抵抗した。秋田藩だけが新政府に味方した。ハタハタは元々太平洋の魚で、移封時に佐竹家が移したという説もある。 またこのとき移住した水戸方面からの女性の一部が、〝秋田美人〞のはじまりだ、という説もあるが、これはかなり俗説を採り入れる私も信じない。 この地方は日本海を海の道として、かなり古くから都との交流が繁しげかったからだ。 佐竹義重の案は義宣がかなり修正した。人事もそうだったし、藩政運営も日々「日記」を残した。その現物を私は県の資料館で見たことがある。近くに甲子園で高名な金足農業高校があった。はどのくらいになるのか見当がつかない。すべて家康の胸三寸だ。 (あのタヌキおやじめ) 家康は義重より五歳年長だ。関ヶ原合戦で敵対した大名の領地は没収した。味方した大名に大盤振舞をしただけでなく、自分の収入も増やした。総計四百万石から六百万石だといわれる。いまいましい。しかし、いままでの経験でこんなときに腹を立てても何もならないことを義重は知っている。いまは隠居料のヘソクリを活かして、息子の要望に応えてやるだけだ。 それに今度の仕事は「これこそ俺が本当にやりたかった男の仕事だ」と思っていた。いままでは気ばかり焦って、そういう機会にも事業にも出会えなかった。息子の義宣が結構器用にこなしていたからだ。 義重は普通の高齢者とは違う。ウヒヒの連続どんなときにも前向きだ。健康でもある。勇んで秋田に急行した。①城は秋田の久保田という岡を選んだ。②城下町は麓の川を挟んで計画した。入口に寺を構え町の護持院とした。③川の岸は花街とし飲食や夜の歓楽街を予想した。④義宣に頼まれた家臣団の異動表を作成した。この作成が実は一番楽しい。トップにとって一番嬉しい作業だ。特に今回はおそらく収入減になるだろうから、秋田へ赴く者と、水戸に残す者に選り分ける。水戸にいればああでもない、こうでもない、と重役たちがうるさい。 今回は秋田の地で義重はほとんど一人で、「息子のために役立つ人事表」をつくることができた。 (ついでに侍じ女じょの表もつくってやろう) 侍女たちの容姿を思い浮かべながら余計なことまでした。家族がバラバラにされた家もある。特に父と子、兄弟は裂かれた。

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