エルダー2021年10月号
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エルダー35※2  “三本の矢”の教訓…… 毛利元就が子の隆元、元春、隆景に授けたという教え。一本の矢は容易に折れるが、三本まとめてでは折れにくいことから、一族の結束を説いた 春風は面白い。母親のしず子にいって家のなかに座敷牢をつくらせ、このなかに久太郎を入れた。久太郎は喜んで入った。 自然と座敷牢との往復で久太郎はやがて目標を発見した。歴史への関心だ。母親に頼んで歴史の本をつぎつぎと差し入れてもらった。やがて自分でも書き始めた。 「久太郎さん、その書物は?」 しず子が訊くと、久太郎は、 「歴史です。私なりの見方です。『日本外史』と名づけました」 そう答えて、 「お母さん、ここから出してください。もっと広い所に出て、人々から学びたいのです」 といった。しず子は嬉しさに涙ぐんだ。久太郎は座敷牢から出て、社会と積極的に接した。書きかけの歴史書も完成させ、著者として自分も号をつけた。広島を含む中国地方の別名である「山陽」だ。頼山陽は歴史家だけでなく詩人でもあった。それも単に山河を詠うたうだけでなく、国のことを心配する憂国の詩人だった。 座敷牢を出た山陽は京都に行く。鴨川のほとりに私塾をかまえ、多くの後輩の指導にあたった。 山陽の成長のきっかけは、頼家の家長・又十郎がつくった。又十郎は、山陽の引っこみ思案の責任は自分にあると感じていた。嫁のしず子が久太郎にふり回されるのも、自分が春水を放置しているからだ、と承知していた。 しかし立派な学者になり有名になった春水に、余計なことはいいたくなかった。竹原は戦国時代、小早川隆たか景かげが城をかまえ、水軍の将として活躍した所だ。隆景の父は毛利元もと就なりだ。隆景を含む三人の子に〝三本の矢〞の教訓※2をして、死んだ長男の子の養育を命じた。 又十郎はその故事を思い出し、二人の息子に久太郎(山陽)の養育を命じたのだ。み思案で、社会との交流をまったく嫌がったことだ。藩校へは登校拒否、友だちはまったくなし。始終家にこもって本を読んでいる。 「おじいさん、何とかしてください」 ついに母親のしず子が音をあげて、又十郎のところへ泣きこんできた。 二人とも久太郎がなぜそうなったか理由を知っていた。父親・春水のせいなのだ。余りにも忙しい。それに指導する世子が幕府の掟で、〝常に江戸に住むこと〞を義務づけられていたので、いきおい春水も江戸に住み続け、広島にはほとんど帰ってこない。しず子と久太郎は母子家庭と同じだった。 久太郎という名は又十郎がつけた。この孫が可愛くて仕方がない。しかし春水の職責を考えると、 「もう少し家にいろ」 ともいえない。 久太郎の孤独癖はいよいよ重くなる。又十郎は考えこんだ。そして結論を出した。春風と杏平を呼んだ。 「父親の仕事が忙しすぎて、息子の久太郎がああいう具合になっている。済まぬがお前たち二人が春水の代わりを務めろ」 春風と杏平は顔を見合わせた。が二人とも兄の激務は知っている。承知した。 杏平はかなりの頻度で久太郎を三次の代官所へ呼んだ。そして山・川・森などの自然に接しさせた。 「自然と話せ。自然もすべて生命を持っている。土からも水からも木からも学べ。風からも学べ。そして村人からも学べ」 と告げた。杏平自身がそういう気持ちで代官を務めていたからだ。久太郎はその云いつけに従い、どんどん変わっていった。生かす〝三本の矢〞の教え

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