エルダー2021年11月号
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エルダー39 と船頭が訊く。勝は、 「焼く。薩摩のイモ(薩摩軍)の焼きイモをつくる」 と答えた。船頭たちは大笑いした。こういう危機状況で、関係者にモラール(やる気)を失わせないのは、やはりユーモアだ。苦労人の勝にはそれがあった。 大久保は勝の上司である。阿あ部べ正まさ弘ひろという開明的な老中首座が、ペリー来日の時に海かい防ぼう掛がかり(後の外務省)をつくった。身分にかまわず人材を集めた。大久保は集められた一人だった。阿部は集めた人材に、 「今度はおまえたちが人材を探してこい」 と命じた。大久保は探し回った。赤坂(東京都港区)でオランダ学の塾を開いている無役の旗本がいた。名は勝かつ麟りん太た郎ろう。若いのに海舟と号していた。 「日本の海軍は各藩(大名家)がバラバラに持っています。ひとつにまとめなければ日本の国は守れません」 という。大久保は感心した。 家を見回すと、天井がない。畳も生活する場だけ。そういえば門もなかった。 「門や天井は?」 と訊くと、 「燃やしました」 と答えが返ってきた。 「燃やした?」 ビックリして訊き返すと、 「はい。貧しいものですから、冬の燃料にしました」 大久保は高く笑い出した。大久保はこういう人間が大好きだ。どんな窮境にいても決して落ち込まない。平然としている。 (よし、こいつを阿部様に推薦しよう) 大久保はそうする。勝海舟の立身は大久保のおかげだ。二人の共通点は、 「危機に面したときは年と齢しを忘れる」ということだ。 大久保は、 「江戸城を焼く」 といい、 「しかしこういう文書は残しておく」 と部下に徳川政治の民政と農政に関する記録を整理させた。これらは開城のときに民政は江藤新平(佐賀藩)、農政は西郷隆盛(薩摩藩)がすすんで引き取っていく。 勝は、 「オレは江戸の町を焼く」 といって毎日その準備をした。話を持ちかけたのは慶喜が可愛がっていた浅草寺の新門の番人辰五郎とその子分、これには、 「オレもやりてえ」 といって駿河の清水(静岡県)から、次郎長一家が上京してきた。ほかには町のヤクザや火消しも動員した。火消しは、 「火を消すあっしたち(われわ二人の分担努力れ)が、火をつけるンですかい?」 と苦笑した。 第二次大戦ならヒットラーが、 「パリは燃えているか?」 と部下司令官に訊いたように、東征軍総指揮官が参謀総長の西郷隆盛に、 「江戸は燃えているか?」 と訊くところだ。 が、江戸は燃えなかった。勝と西郷の会談(根回しは幕臣山岡鉄太郎が行った)によって、大久保と勝の提示した条件が守られたからだ。 西郷は二人の人命尊重の精神と、その実現に打ち込む死に物狂いの誠意に胸をうたれた。江戸百万人の市民はこうして救われた。実をいえば、勝は隅田川畔を中心に、 「江戸市民を無事に房総(千葉県)へ避難させてくれ」 と、おびただしい船を船頭に渡りをつけていた。 「江戸の町はどうするンです?」

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