エルダー2021年12月号
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エルダー39しいですね」 「惜しい。しかしかれの心は固い。わしには仕えないよ」 白石は大岡にこんな話をしたことがある。落葉のことだ。 「大岡さん、この落葉は親孝行なンですよ」 「落葉が親孝行?」 「そうです。これらの落葉は今年生まれて今年散ったものです。つまり寿命は今年一年でした」 「はい」 話がみえないので、ただうなずいた。 「しかし葉は親の幹の下に集まり、やがては朽ちて親を包む土の中に自分の身も溶とかしこみます」 「はい」 「そして親を養う肥こやし料になるのです。そう考えると落葉たちの孝心がいじらしくて…」。そのときの白石は涙ぐんでいた。大岡は胸を熱くした。 (こんな人物を鬼と呼ぶ奴の気が知れない) と思った。しかしこの話をしたとき、吉宗は「鬼の目に涙か」とつぶやいてかすかに笑った。大岡はその姿をみて(この将軍にも非情な所がある。気をつけないと)と緊張した。 吉宗は複雑な人間だった。ブレーンにした学者は室むろ鳩きゅう巣そうだった。推薦者は白石だ。学者としては白石の方がはるかに力がある。しかし行政の実務については鳩巣はいろいろな案を出した。吉宗はそれを自分の改革(享保の改革)に活用した。そのくせ自分が関心のある課題については、密かに白石の意見を求めた。その橋渡しをするのは大岡だった。白石は日蔭の学者ではなくなった。かれの学問的業績のかなりの部分は、吉宗の庇護によって成し遂げられる。川に落ちた犬は再び光を帯びて輝いた。実力がそうさせたのだ。しかし大岡は、吉宗の支持は自分が話した白石の〝落葉の親孝行〞のせいだと思っている。葉で一杯だった。それを集めて焚たき木ぎで焼いた。焚木は垣根の柴の古枝を使った。 白石に幕府からの貸与品(家・土地・図書・什器等の備品)の返還を求めるためにやって来るのは、大おお岡おか忠ただ相すけという武士だ。先日まで伊勢の山田奉行だったが、吉宗に信頼されて新しく江戸町奉行になった。 白石の所に来るのは吉宗から、 「町奉行は人情の機微を知らなくてはつとまらぬ。それにはイヤな思いも味わうことが必要だ。学者の新井白石から貸与品を取り上げてこい」と命ぜられたからだ。 しかし大岡は昔から白石を尊敬していた。特に江戸城から悪や汚れを追い払う白石の勇気には、遠い伊勢から拍手を送っていた。だから尊敬する白石に、備品返納を迫ることもイヤな仕事ではなかっ鬼の目にも涙た。というより一度も催促なんかしなかったからだ。逆に、 「必要ならいつまでもお使いになって結構ですよ。帳簿の方は何とかしますから」 と云った。大岡にすれば、白石が庭の落葉を集め、それを燃やしながらいろいろな経験談を話してくれるのを聞くのが、得がたい楽しみだったからである。 そして大岡はそれをひとり占めにしなかった。必ず吉宗に報告した。吉宗もまた大岡の話を楽しみにした。ヤキモキしたのは、幕府の財産の管理責任を負う勘定奉行所の役人だけだった。あるとき大岡は、 「上様」と吉宗に云った。 「何だ?」 「新井先生を顧問になさったらいかがですか?」 「そうするつもりで持ちかけたが断られた。忠臣は二君に仕えずとな」 「それは残念でした。しかし惜

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