エルダー2022年1月号
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2022.122じける前で、新聞記者を大量採用していたなどの運もあった。地方勤務から始まり、運動部のデスクや編集委員、運動部長を歴任し、退職前は東京本社で論説委員を務めた。著書のなかの言葉を借りれば「辞めたいと思ったことはなかったものの、会社にしがみつきたいとも思わなかった」という。転機となったのは、2014(平成26)年に長男が生まれたことだという。落合さんが56歳のときだ。「ずっと新聞社で働き、定年後も嘱託で65歳まで働いたとしたら、息子はそのとき何歳だろうかと考えました」と話す落合さん。「リスクは高いけれど、体が元気なうちに、自分で何かを始める潮時ではないか」と考え、2017年3月での退職を視野に置き、本屋開業に向けて始動した。「『なぜ本屋なのか』と聞かれたら、初めにお話ししたように特段の理由はないのです。ただ、本に囲まれた場所で長く働いてきたことが少しは影響しているのかもしれません。何よりも本のある空間が大好きです」と落合さん。論説委員というのは社説の執筆が主な仕事であり、第一線の記者よりも時間があることから、仕事のかたわら、「2017年、『本屋』を始めます。」と書かれた名刺をもって、小さな本屋に取材を重ねた。各地の独立系書店に足を運び、書店を始めようと思っていることを告げ、店主に話を聞くなかで、転職の背中を強く押されたという。当初は、自分の蔵書を元手に「古本屋でもやるか」と考えていたところ、リサーチのなかで知り合った福岡県の書店店主から「本屋を始めるなら、新刊のほうが店に勢いが出る」とすすめられたという。その一方で、開業セミナーや起業塾に参加するなど、さまざまな出会いのなかで落合さんは加速度的に学び続け、開業の道が開かれていった。さまざまな出会いがキャリア・チェンジの強い味方によい出会いとは「人」にかぎらない。ときには物であったり、場所であったり、そこにも偶然が生み出す力がある。本屋の開業場所は、当初は住まいのある東京都の墨田区内を考えていたが、なかなかよい物件が見つからず、2016年の秋、台東区にある物件を紹介された。それは現在の物件ではなかったが、契約前に現在の店舗の前を偶然通りかかった。たまたまシャッターが半分空いていたので下からのぞいたところ、中2階の梁はりが見えた。もともとは材木倉庫で、かつては職人たちが中2階で寝泊まりしていたらしいが、築約60年経って駐車場や倉庫として使われていた。天井の高さも魅力的であり、ともかくも中2階に心奪われた。たまたま入った近所の喫茶店の店主から賃貸物件であると聞き、貸してもらうことにしたという。「もし、この前を通らなかったら、もしシャッターが全部しまっていたら……とつい想像してしまいます。店の雰囲気もずいぶん違っていたことでしょう。4mの天井高をもつ本屋は珍しく、年季の入った木はそのまま使い、可動式の本棚を新しく入れました。中2階の床を畳敷きにしてほしいという注文以外は、すべて建築家におまかせしましたが、自分の心にかなった空間が実現しました。店に入ってきた途端にスマートフォンで撮影されるお客さんもいますよ。入れ物が整ったら次は、中身の充実を目ざしました。選書に関しては、大きい書店の真似はしないというのが僕の考え方の基本です。落合博さん(Photo by chloe)

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