エルダー2022年1月号
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エルダー37切って平洲は主人の部屋に行った。 病気ではないから主人も掛布団をたたんで背を凭もたせていた。平洲が入ってきたのでビックリした。 「先生!」 と目を剥むいた。平洲は主人に心から謝罪した。平洲は誠実だったので謝罪は心からのものだった。主人も間の悪そうな応接をしながらも、まだ枝を折られたショックから抜けきれていなかった。 平洲は主人の落胆を重く受けとめた。 「『論語』のなかで、孔子は『過ってこれを改むるに、憚はばかることなかれ』と告げている」 名古屋に着いて尾張藩の藩校明めい倫りん堂どう(平洲が命名した)の講堂に集まった多数の藩士と町人(藩は市民や農民にも平洲の講話をオープンにしていた)を前にして、平平洲の誠実さ洲は語り始めた。 「この言葉は、過ちを改めることよりも、過ちに気づくことを孔子は重くみている。それと同時に、私は孔子ははっきり云わないが、いくら気づき、また改めようと、それによって許される過ちと、絶対に許されない過ちとがあるように思える」 聴衆の間に戸惑いの小さざ波なみが起った。かまわずに平洲は続けた。 「実は名古屋に来る途中、私は箱根の馴染みの宿に泊まって、こういう過ちをおかしてしまった」 と、箱根の宿の庭でカシの古木の枝を折り、杖にして宿の主人はじめ使用人をひどく悲しませたことを告白した。そして、 「私のこの過ちは、どんなに私が悔い、二度とおかさないと改めても、絶対に許されるものではありません。私は死ぬまで悔い続けるのです」 と云いきった。本心だった。 (よい杖になる) その通りだった。枝はよい杖になった。平洲は、その杖を使いながら山道の散歩を十分に堪能した。 宿に戻ると従業員たちが、お帰りなさいと迎えたが、雰囲気がおかしい。みなの表情が固い。 「何かあったのか?」 と訊きいた。みな顔を見合わせた。が、返事はしない。嫌な予感がして平洲は番頭の前に立った。 「番頭さん、何があった?」 番頭は云い澱よどんだ。しかしみんなに目でうながされて、しかたなく口を開いた。手で、 「その杖です」 と平洲が持っている杖を示した。 「この杖がどうした? 朝、私が庭の隅で折った。古木だから構わなかろうと」古木には因縁があった 「それがそうじゃないンです」 番頭は首をふった。そして心を決して説明を始めた。・ 庭のカシの古木は亡くなった先代が苗木を植えたときから大事にしていて、死ぬまで手入れをしていたこと・ その気持ちは現い在まの主人にも引き継がれ、従業員全員に、気を遣うように云われていたこと 「それを私が無神経に折ってしまった、ということか?」 事情がわかって平洲は話を先回りした。番頭はうなずき、いまの主人がショックの余り寝込んでしまった、と告げた。平洲は驚いた。しかしすぐ世の中にはそういうこともあるのだ、と理解した。平洲は云った。 「知らないとはいえ、それは悪いことをした。ご主人に謝ってこよう」 番頭の、そこまでなさらなくとも、私が余計なことを云った、と叱られます、という訴えもふり

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