エルダー2022年4月号
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2022.434[第113回] 政略結婚は男側の事情で女性がその犠牲になることが多いが、徳川千姫はその典型だ。関ケ原合戦(一六〇〇年〈慶長五年〉)が済んでまもなく、徳川二代将軍徳川秀忠の娘・千姫は、祖父・家康の意向で、豊臣秀頼(秀吉の子。秀吉はすでに死没)の妻になった。このときまだ七歳。夫になる秀頼は十一歳である。 秀頼の母・淀よど殿どのは、千姫の母・お江ごうの姉だ。そのため、はじめのうちは可愛がられた。が、家康の天下への野望(天下の権は徳川家の世襲とする)が明らかになると、淀殿の態度が変わりさかんに千姫をイビった。当然、淀殿が支配する大坂城大奥の女性たちもイビリに参加する。 そのくせ大坂の陣(豊臣家と徳川家の大合戦)のときには、 「家康殿と秀忠殿の所に行って、淀殿と秀頼様の助命を嘆願してきなさい」 と強制された。千姫はこの指示に従った。が、祖父も父も会ってくれなかった。父に至っては、 「一度嫁に行った身だ。夫と運命をともにしろ」 と、およそ親らしくない言葉を投げつけた。大坂城に戻ってこのことを伝えると、 「この役立たず!」 とののしられた。徳川軍の砲撃が激しくなり、秀頼と淀の母子は自決を覚悟した。秀頼はやさしいので、側近の武士に、 「千姫を城の外に連れて行き、徳川勢に引き渡せ」 と命じ、自身は、尼になった秀ひで頼よりの娘

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