エルダー2022年5月号
39/68

エルダー37 そこへいくと静はまったく対照的だ。楚そ々そたる彼女のほうが反対に能動的なのだ。 静は舞を職業として選ぶ。つまり自分の芸を公開する職業だ。 静の舞はしかし源義経への思いである。恋情だ。 「わたしはこれほど義経様を思っている」 ということの公式表明だ。芸能人としての仕事だからもちろん有料だろう。この点、静はたくましい。 巴は義仲を液化して自分のなかに受け入れた。しかし静は逆だった。 自分を液化して義経に注入した。その様さまを舞に仕立て公開した。しかし私はそこに静の云いようのない悲しみを感ずる。舞でし静の舞と義経か自分の思いを語れない立場の悲しさをである。この点は木曽の黒ユリの方が恵まれている。 しかし静の舞は、あの鉱石のような政子の心をも水のように溶かした。 (女子はこれほど男を思うのか) と政子は驚いた。改めて自分のことを振り返った。源頼朝の存在を認識した。 それまでの政子の心は、夫(頼朝)のことを考えないではなかったが、東国武士の一人としてであった。しかしこのとき(静の舞を見て)からは、 「夫のために鎌倉殿(将軍職)と幕府を守ろう」 という気になるのだ。 政子が息子(源頼家や源実朝)たちに非情になっていく(十三人の合議制など)のも、動機はこのときからだと思う。 義仲は平家を討ち続けるが調子に乗りすぎて、ついに、「追討の院いん宣ぜん(法皇・上皇の命令)」を出されてしまう。受けたのも実行したのは義経だ。 義仲は義経にはかなわない。巴とは琵琶湖畔で別れる。感じだが、この別れはサッパリしている。巴も、 「この人とも、ここでお別れだ」 と覚悟する。木曽の黒ユリ的感覚だ。 巴はその後、尼になったともいうし、武家の妻になったともいう。どっちにしても、サッパリと黒ユリらしい生き方をしただろう。 静は、吉野山の奥、大峰の「女人限界」の所で義経と別れた。以後の二人にはいろいろ巷説がある。 義経はモンゴルに渡ってチンギスハン(カン)、になったというのもある。英雄へのつきぬ夢物語だ。 巴がこの話を聞いたら、 「バカバカしい」 と笑うだろう。なぜなら巴の知る義経は美丈夫で、たくましいのは義仲だからだ。 それに当時の行程から考えても、大陸へは近江(滋賀県)から越前(福井県)へ抜けて日本海を渡った方が早い。 リアリストの静なら、 「バカバカしい。義経様がいらっしゃるのはわたしの胸のなかよ」 と答えるだろう。

元のページ  ../index.html#39

このブックを見る