エルダー2022年9月号
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■■■■■■吉田松陰は甥■■教えてほしい」というのだ。ふつうの武士だったら、 「バカ者、そんなエゲツないことを教えられるか!」と怒るところだが、五郎左衛門はちがう。自分が先頭に立って、出世しろといっているくらいだから、 「いい心がけだ、いくらでも教えてやる」と逆に積極的に迎え入れた。親は喜び、 「たとえば甲重役様のお気に入るには?」ときく。五郎左衛門は、 「明日から城に勤め、忰■を朝早く叩き起こして甲重役の家の門前をきれいに掃除させろ。一日や二日ではダメだぞ。一カ月も二カ月も相手が気づくまで続けさせろ。必ず目にとまる」 「なるほど、ありがとうございます」ちがう親が、 「乙重役のお目にとまるには?」 「ちょうどあの家の柿の実がなっ 「はい、必ずそうします。いや、 「何だ?」 「あの家には柿だけでなく、栗 「時期に合わせて柿と同じ手を 「ありがとうございます。いやぁ           ■      て塀を越えたところだ。道路上に出た柿には植え手の所有権はない。カゴに柿の実を集めてそのことをいってやれ。特に所有権の話をしてやれ。久保塾で教えられましたと」よいチエを授かりました。先生」も道路に顔を出すことがございますが」使え」みなさん、まったくこの塾は役に立ちますな」みなも一斉にうなずく。久保老人も満足だった。意図的に塾名を明かさなかったが、実はこの塾にはキチンとした名がある。 「松■下■村■塾■」だ。長州藩毛利家は関ケ原合戦のときに、藩主毛利輝元が石田三成に西軍の総大将にかつぎ出された。しかし態度があいまいだった。徳川家康は怒り、百数十万石の領地をとりあげ、日本本州の西の果てに追った。そして、 「瀬戸内海側には城を造るな」と命じた。毛利家はやむを得ず日本海側の萩に築城した(実際は美しい所だが)。萩は山から流れてくる二本の大河の間にできた洲のうえの町だ。東側の川脇の岡が松本というところで、五郎左衛門はここに住んでいた。庭に一本のみごとな松の木が植わっている。塾はその下にあった。それで「松の下の村塾」と呼ばれていたのだ。が、間もなく騒ぎが起こる。お気づきの通り、 「松下村塾」は、幕末に吉田松陰が運営して、明治維新を実現した志士を多数生んだ有名な学塾だ。その学塾と塾名が同じだけだったわけではない。久保五郎左衛門の塾が、松陰の運営した「松下村塾」そのものなのである。 「実用学塾がなぜそんな質的変更を?」と多くの方が眉を寄せられるにちがいない。そのいきさつを今回書かせていただくが、久保五郎左衛門は、吉田松陰の叔父であり親族の一人だ。甥の松陰は下田港(静岡県)でアメリカへの密航を企て、その企てを大胆にも寄港していたアメリカの全権大使ペリーに訴えた。ペリーは驚いたが逆に松陰の勇気と、憂国の熱情に胸を打たれた。(次号へつづく)31エルダー

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