エルダー2022年11月号
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松陰の罪を軽減せよ実際に行われた刑と松陰の福■■堂■■化行すれば大きな点数かせぎになる。が、いまはまだ条約を結ぶ以前の状況だ。ペリーはアセッた。結局は、「条約を結んだらボクのポケット・マネーで招待するからそれまで待ってほしい」と云うにとどめるほかなかった。これはペリーの本心だ。松陰が下田奉行所に自首したためにおジャンになったが、ぼくはもしもペリーの案が実現したら、過激な攘夷論者吉田松陰が、そのまま熱い青春の血を攘夷でわかせていたかどうか疑問だ。というのはペリーの要請で、「吉田君の行動は愛国的行為だ。ホメ讃えられるべきだ。重い罰など与えないように」と、通訳を通じてペリーからくどく下田奉行に伝えられていたからだ。下田奉行は黒川といって、(側用人)に登用される。開明派だ。■ この直後に一橋慶喜のブレーン「吉田寅次郎(松陰の通称)は愛国者だと、ペロリ(日本でのペリーの呼び方)がホメてくれた。重く罰することは逆に国益に反する、と長州藩に厳しくそういえ」黒川は部下にそう命じた。「吉田寅次郎は愛国青年だ」という評価は江戸城内でも一斉に盛り上がった。ところが「攘夷派」が占める一方、「幕府の禁令にそむいて、藩をつぶしかねなかった大罪人」と松陰をみる保守派役人は、「吉田を軽い罪などとはとんでもない、重く罰せよ」と云って、萩の牢にブチ込んだ。松陰は、「ペロリ大使でさえホメてくれたのに、何をするんだ!」などと文句はいわなかった。入牢して牢の状態をこまかく観察し、有名な、「福堂計画」を立て、実行した。福堂というのは、「幸福な建物」のことだ。牢が幸福な建物であるはずがない。松陰はそれを幸福にしようというのだ。松陰は先輩(?)の囚人たちに、「あなたのご趣味は何ですか?」ときいて歩いた。藩の保守派と違って、牢の管理者は黒川下田奉行の達しをキチンとうけとめていた。「吉田寅次郎は、ペロリさえ感動させたのだ。丁重に扱おう」と、牢役人たちに合意を求めた。役人たちも賛成した。松陰は、俳句、書、和歌、論語などの学問に造詣のある囚人に、「それを牢で講義してください」と頼んだ。本人たちのパフォーマンスによるストレス解消、きく側の質的向上の二つをねらった人間改革法だ。松陰自身は孟■子■の教えを講義した。孟子は、「人間は生まれつき善である」と唱える〝性善説〟者だ。それと、「困っている人をみたら、すぐ救いに行く〝忍びざるの心〟を持っている」と、あくまでも人間の善意を信ずる思想家だ。松陰は孟子に傾倒していた。はじめはブツブツいっていた牢内も、松陰の誠意に負けて次第に牢は福堂化した。牢の管理者はこれをみて「吉田さんに塾を持たせよう」47エルダーとと思思いい立立っったた。。

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