エルダー2023年1月号
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遠■■ ■■藤由■■次■第回■■■■私は福島県耶■麻■郡■塩■川■町の生まれです。塩川は会津若松市と喜多方市の中間に位置し、その後の合併でいまは喜多方市塩川町になっています。その名の通り、町の中心を大塩川が流れる自然豊かな土地ですが、目立った産業もなく、中学校を卒業と同時に集団就職で上京することになりました。それまでも新聞配達で家計を助けていましたし、就職することは自然の成り行きでした。いわゆる日本の高度経済成長期を支えた「金の卵」として故郷を出発したのです。就職先は、義兄に紹介された東京都文京区白山にある箔■押しの会社でした。当時から文京区には伝統的な印刷所や製本所が多く、箔押しの会社もひしめき合っていました。箔押しとは、金属板を使って熱と圧力をかけて紙に箔を転写する加工法で、表紙に箔押しで文字を入れると高級感が漂います。需要も多かったことから現場は忙しく、とにかく先輩たちの手元を見て必死で仕事を覚えました。当時の職人さんは言葉で伝えてくれるような人は皆無で、自分の目で「しっかり見て覚えろ」と怒鳴られながら箔押しの技術を身につけていきました。工場の2階に住み込みで働く日々のなかで、唯一の楽しみといえば後楽園ホールにあったローラースケート場に通うことでした。仕事場から歩いて行けるので、休みの日は足しげく通いました。東京ドームになる前の後楽園はボウリング場もあり、当時の若者の遊び場の拠点だったように思います。仕事が辛くて郷里に帰ろうと思ったこともありますが、気がつけば15年ほど勤めていました。仕事は初めてですが、箔押しの仕事でも金属板を使って圧をかける工程があり、思いのほか早く板金技術を習得できました。ただ、残念なことに13年ほど勤めたころに経営不振となり、やむを得ず、プレスの会社に就職しました。そこはお米の自動販売機を製造していた会社で、今度こそ長く勤めたいと思っていましたが、米が輸入自由化になり景気も悪くなっていきました。プレス会社の退職を余儀なくされ途方にくれていたとき、このプレス会社の社長と「ものづくりネット板橋」で日ごろから交流があった埼玉県にある株式会社日本工研社の平山正人社長から、「経験をう次に勤めたのは板金の工場でした。板金の退社したのは遠藤さんの都合ではなく箔押しの仕事が激減して廃業を余儀なくされたからである。「時代の流れには勝てません」と、遠藤さん。ここから苦労の日々が始まる。「金の卵」の誇りを胸に「ものづくり」の道を行く従業員2023.126さん高齢者に聞く 遠藤由次さん(73歳)は、ものづくりの世界ひとすじに歩いてきた。60歳のとき、いまの会社の社長に声をかけられ、経験豊かな板金技術を活かすため入社し、第二の人生を歩み出したという。ものづくりの話になると目が輝く遠藤さんが、生涯現役で働く喜びを語る。株式会社日本工研社78

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