エルダー2023年3月号
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原島さんは「私の人生にはあまりドラマがないので」と謙遜するが、時代に翻弄される大企業の実態をつぶさに見てきた半生といえよう。柔和な雰囲気の姿に企業戦士の風格が漂う。母の期待に応えて接客の心を学んだ銀行マン時代第回■■■■■私のルーツは東京都台■東■区■浅草ですが、父が郵政省(当時)の職員であったため、宿舎をいくつか移り住み、恵比寿の宿舎に住んでいたときに産声をあげました。物心がついたころには中野坂上の宿舎に住み、その後、東村山市に転居しました。私の母は教育熱心な人で、小・中学校は国立大学附属の学校に通うことになりました。母が名門の女学校出身なので、子どもたちにも学業のためによい環境を用意してくれたのかもしれません。附属には高校もありましたが、横浜市日吉に校舎があった慶應義塾高等学校を受験し、幸運にも合格してそのまま大学まで進みました。考えてみれば、受験をしたのは高校だけで、苦労のない学生生活を過ごさせてもらい申し訳ないほどです。ただ、高校は厳しく、落第制度があり、高校5年生、6年生などという、つわものもいました。いま思えば悠長な時代でした。大学では経済学を専攻し、大手都市銀行に就職しました。大手企業に入社できた安堵感はありましたが、その後、二度の合併を経験することになります。一見順■風■満■帆■の人生にもそれなりの岐路があり、だからこそ人生は面白いのだと思います。■■店です。のんびりとした時代でしたから、現在のように即戦力を求められるわけではなく、預金、為替、窓口というふうに順番に経験を積ませてもらいました。神田支店で3年間過ごした後、大阪の梅田支店に転勤。銀行マンにとっては避けて通れぬ、転勤の人生がスタートしました。て、日本生産性本部の経営コンサルタント養成研修に外部派遣させてもらえることになりました。わずか4カ月ほどでしたが、銀行以外の外の世界を知ると同時に、多彩な人材との出会いがあり、刺激的な日々でした。チームで企業に実地研修に入るなど、ここで学んだ生産管理やマーケティングは、その後の人生に大きな影響を与えてくれました。4年ほど経ってまた東京に戻り、渋谷支店を皮切りに法人の渉外担当や本店営業部で大企業を担銀行マンとしてのスタートは東京の神田支梅田支店時代に銀行内の選抜試験を受け2023.340シニアパートナー原■■ ■■島俊■■夫■さん 原島俊夫さん(69歳)は、銀行畑一筋で働いてきた。定年後は、家電専門店に販売員として就職。これまでつちかってきた接客の技を活かして現場に立ち続ける原島さんが、生涯現役の喜びを笑顔で語る。株式会社ノジママルイファミリー志木店高齢者に聞く79

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