エルダー2023年5月号
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第回■■鹿■野■町■で生まれました。地元の高校を卒業後、私は埼玉県の秩父盆地の西側に位置する小■大宮市にあった埼玉県警察学校に進みました。家族や親戚に警察関係者は一人もいませんでしたし、警察官という職業に強い憧れがあったわけでもありません。ただ、刺激を求めて家を出たいという思いがあり、気がつけば警察という世界に足をふみ入れていたように思います。本当は大学進学の準備も進めていましたが、家の経済状況を考えてあきらめたという背景もありました。人生はなかなか自分の思う通りにはいきません。警察学校のカリキュラムは法令関係を学ぶ座学や、柔道、剣道、逮捕術などの実技があり、とても厳しく鍛えられました。辛くなって寮から逃げ出す人もいたほどです。私自身、警察学校を出て警官になってから何度辞めようと思ったかわかりません。警察は階級が重んじられる世界です。尊敬していた先輩が、階級が上がっていくにともなって人間性まで変わってしまったこともあり、警察社会は想像できないくらい理解に苦しむ職場でした。それでもなんとか定年まで働き続けることができたのは、交番勤務時代に地域の方たちと触れ合えたことが原点にあるからだといまは思います。警察学校で1年学んだ後、狭■山■警察署に配属され、巡査として交番勤務が1年半続きました。自分としては大したことはしていないと思っていたのに、地域のみなさんがとても感謝してくださったことは忘れられません。しましたが、そのころ、成田空港の開港をめぐって反対闘争が激化していました。1978(昭和53)年3月26日に開港反対派によって管制塔が占拠されたときもすぐ近くにいました。4年ほどの機動隊勤務でしたが、激務のため顔つきが変わるほど体重が激減し、実家に帰ったときの両親の驚いた様子を覚えています。としましたが、県内の異動のため単身赴任もなく、東松山警察署で定年を迎えました。定年後は5年間交番相談員として県内の駅前交番で勤務し、半世紀近くを警察という世界で生きてきました。1年ほどハローワークに通いながら次の仕事を探す日々を過ごしましたが、そろそろ新しいスタートを切らなければと、思い切って妻が勤める会社で働けないか交番勤務の次に埼玉県警の機動隊員を拝命焼きたてのパンの香りが漂よう風貌からは以前の姿は想像しがたいが、時折のぞく真剣な表情に、警察官の面影がある。警察という未知の世界へ何ができるのか、自らに問いながら2023.54025歳で結婚し、以降は県内の警察署を転々従業員日■野■原■■実■■■さん 日野原実さん(67歳)は、警察畑一筋に歩いてきた。定年後、思いがけない縁の糸が紡がれて、ベーカリーに就職。入社した当初はカレーパンを揚げ続け、いまでは二次加工も担当する。180度違う世界に飛び込み活き活き働く日野原さんが、生涯現役の喜びを語る。ベーカリーズキッチンオハナ道の駅はなぞの店高齢者に聞く81

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