エルダー2023年10月号
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歳で放送大学へ入学しました。憧れの4年制の大学です。通信制の短大を卒業した後、4年制の大学を探していましたが、1981(昭和56)年の放送大学設立が願いを叶えてくれました。3年間は必死で単位を取り、残り1年を卒業論文に費やしました。「乳がん手術後の発汗と下着について」これが私の卒業論文で、放送大学の酒■井■豊■子■教授、文化女子大学の田■村■照■子■教授のご指導のもと研究し、卒業後も日本家政学会で研究成果を発表しました。自分のつらい経験が同じように苦しむ人たちに少しでも役に立つことができたらという思いに支えられ、また、知識こそ困難を乗り越える力だと信じて学び続けてきました。造船会社は本当は60歳が定年でしたが、人材不足もあり、64歳まで勤めました。念願の4年制の大学を卒業し、卒業論文までまとめさせてもらい、また定年まで勤めあげることができ、本当はそこで大満足なのでしょうが、胸のなかではふつふつとたぎるものがありました。漠然とはしていましたが、挑戦してみたい■■■■■■■■と思っていたのがお笑いの世界でした。同世代の人なら記憶があると思いますが、中田ダイマル・ラケットに代表される漫才の黄金期を過ごしてきた私たちにとって、お笑いの世界は憧れの的でした。クラスに面白い子がいると先生から「吉本に行け」などといわれたものです。とはいえ、そのころ、お笑いの世界に進む方法など皆目わかりませんし、退職してからひざを手術したこともあり、2年ほどはのんびり過ごし、その後、高齢者劇団に入りました。しかし、芝居の世界は初めてのことで、基本もできていない自分に愕■然■として、基本から学びたいとの思いが強くなり、勉強できるところを探していました。友人の協力もあって、やっと出会えたのが「吉本総合芸能学院」(以下、「NSC」)だったのです。NSCに思いきって電話したら、面接してくださるとのことで、東京都千代田区にある「神■当時、私は71歳でしたが、まず驚いたのは年齢制限がなく、入学条件も緩やかで、学費の支払いはあたり前ですが、あとはやる気があるかどうか、もう一つは神保町の6階建てのビルの非常階段を毎日元気に昇り降りできるかどうかというユニークなものでした。6階の事務所に毎朝挨拶に行くことが義務づけられてお■■保■町■よしもと漫才劇場」に出かけていきました。り、学生はエレベータを使用できません。ひざの手術をしておいてよかったと思いました。なりました。授業はダンスや発声、ネタづくりなど多岐にわたり、レベルが高く悪戦苦闘の連続でしたが、すべての経験が新鮮で、私は無遅刻、無欠席で卒業しました。思っていましたが、2019年4月に24期生の卒業と同時にデビューという夢のような機会をいただきました。デビューなど夢のまた夢であったので自分の芸名など考えてみたこともなかったのですが、同期の若い仲間たちが「『おばあちゃん』でよくない?」と声をあげてくれて、71歳のピン芸人「おばあちゃん」が誕生しました。てくださる作家の先生からは、「自然体で自分の経験を話せばいいよ」といっていただき、経験から生まれたシルバー川柳を持ちネタにしています。作家の山田ナビスコさんがいらっしゃらなければ今日の自分はないと思います。て「私が触ると点滴に見えるでしょう。マイクなんです」と、開口一番つぶやくと会場がどっと沸きます。たくさんのとびきりの笑顔に出会うために、たいへんな時代をご一緒に元気に生きていきましょうという思いを込めて、さあ、明日からも舞台に立ち続けます。幸いにも入学が叶い、私はNSC24期生と正直、NSCで学ぶところまでで十分だと現在、デビュー5年目です。ネタを指導し背丈より高く伸びたマイクを口元まで下げ神様は試練に耐えうる人だけに苦労を与えるのだろうか。造船会社で定年を迎えた「おばあちゃん」。ここから真骨頂の新たな挑戦の日々が始まった。吉本総合芸能学院との出会い夢は叶う、それを信じて37エルダー高齢者に聞く

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