第回■■■私は1945(昭和20)年の2月に、東京の池袋で生まれました。生まれてわずか1カ月後の3月10日に、死者が10万人を超える東京大空襲があり、東京の下町一帯は戦禍に見舞われました。池袋は下町に比べれば被害は小さかったものの、生後1カ月の私を抱いて火の海を逃げ回った苦難を両親は何度も語ってくれました。「両親が必死で守り抜いてくれた命を大切にしなければ」という思いが、私の原点になっているような気がします。私たち一家は戦禍をくぐり抜け、母の生家があった埼玉県深■谷■市に疎開しました。その後私は深谷市内にある高校を卒業して、東京都内の大学に進学、民間のメーカーで営業職に就きました。会社は全国展開をしており、私は東日本一帯、なかでも甲信越を中心に営業の仕事を任され、転勤生活が長く続きました。その後東京都内に配属され、埼玉県浦■和■市の社宅へ入り、定年の4年前には念願のマイホームを浦和市に構えました。60歳で定年を迎えた際、会社に残る道もありましたが、母が大病をしたことで迷うことなく母の介護を選択しました。生まれたばかりの私を抱いて大空襲の焼■夷■弾■のなかを逃げ延びてくれた母に、やっと親孝行をするときがやってきたのです。深谷市で暮らす母を介護するために浦和市から通い続けました。■■の不便もあり正直たいへんでしたが、半年ほどが過ぎたころ母に回復の兆しが見られ、幸いなことに深谷市内の施設に入所が叶いました。もちろん折につけ母の見舞いは続けましたが、介護は一段落し、憧れていた悠々自適の日々が始まりました。ところが望んでいた自由な生活は、気がつけば退屈な日々に変わっていました。趣味や遊びというものは、忙しい日々の寸暇を惜しんでやるからこそ楽しいのだということに気がついたのです。ワークに通いましたが、なかなか望んだ仕事に出会えません。それというのも、民間メーカーの過酷な競争のなかで戦ってきただけに、これからは社会の役に立つ、何か公共の仕事をしたいと思っていたからです。模索する日々のなかで、そのころ利用していた浦和駅で放置自転車の監視業務を目にすることがありました。その現場で働く人から教えてもらったのが、いまの会社、「日本環境マネジメント株式会社」です。定年から1年後、新しい人生が始まりました。迷うことなく選んだ介護生活は、二重生活再び社会に出ようと、新しい職を探しにハロー1945年3月10日の東京大空襲は死者約た母への感謝を温品さんは何度も口にした。命の尊さをいつも心の片隅に第二の人生がスタートプロパティマネジメント事業本部運営管理部温■■品■■正■■比■朗■2023.123878年経ったいま、小さな命を守り抜いてくれ10万人、被災者は100万人を超える。戦後さん高齢者に聞く 温品正比朗さん(78歳)は営業畑一筋に歩き続け、定年後は放置自転車監視業務の統括責任者として第一線で活躍している。生後1カ月のときに東京大空襲に遭い、命の大切さをかみしめながら日々業務に励む温品さんが、生涯現役への思いを語る。日本環境マネジメント株式会社88
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