ことだけは覚えています。運よくその高い倍率を勝ち抜いて就職が叶いました」と奥野さん。配属されたのはフライトマネジメントの部門で、ディスパッチャー(航空機運航管理者)として燃料計算や飛行計画の作成などをサポートする業務に就いた。転勤の多い職務で、まず大阪で3年間勤務した後、高知へ転勤となった。その後も大阪、沖縄、成田、さらにはオーストリアのウィーンで5年間の勤務もあったという。高知へ配属されたとき、高知空港(高知龍馬空港)で同じ全日空の管理課に勤務していたのが後の妻となる明美さんであった。2人は結婚し、明美さんは退職、奥野さんの沖縄以降の転勤にはすべて同行した。フライトマネジメントの仕事を四半世紀近く務めた後、羽田空港で空港マネジメントの業務に移り、10年ほど勤務の後、定年を迎えた。「空港マネジメントというのは、空港環境計画の作成や教育、啓発活動など多岐にわたります。要は顧客満足度を向上させるためのさまざまな施策を上司に提示していくという仕事でした。いかにお客さまに満足していただけるかを考える部署で10年間働いた経験は、個人事業主に転身していく過程でおおいに役立ちました。マネジメントを学べたからこそ、思い切って個人事業主に一歩ふみ出せたのだと思っています。62歳で定年を迎えましたが、65歳まで嘱託として働けるということで迷わず働き続けることにしました。週3日勤務になるため、当然賃金は下がりますが、副業可能という点が私にはありがたいことでした。私たち夫婦はカフェや雑貨屋を巡ることが好きだったので、『定年後は自分でカフェを経営したい』と考えていましたが、最初のころ、妻は本気にしていなかったようです。ただ、自宅に焙煎機を置いて焙煎の勉強をしている姿を見て、少しずつ理解してくれたのではないかと思っています。そして、2014年、念願のコーヒースタンドを開業することができました。2016年に全日空を65歳で退職するまでの2年間は月・火・水曜日は会社に出勤、木曜日はコーヒー豆を焙煎して、週末の3日間にお店を開けました。ダブルワークで心身ともにきつかったのですが、『夢を叶えた』という思いが支えになって乗り切ってこられたように思います。若くして結婚、転勤にもすべてついてきてくれて、その後もずっと添い続けてくれている妻には感謝しています」と奥野さんは白い歯を見せた。「失敗するかしないかはやるかやらないかだ」という言葉に背中を押された奥野さんは、2013年ごろから自転車で走り回って店舗となる物件を探していたという。いまのお店がある建物を通り過ぎたとき、そこにあった小さな事務所に心惹かれた。中をのぞくと、白い壁がとてもきれいだったので奥野さんのイメージが膨らみ「ここでお店をやろう、街の人たちにとびきりおいしいコーヒーを飲んでもらおう」と、奥野さんはすぐに大家さんをたずね、手つけを打った。白い壁を活かして店内をレイアウトし、カウンターや棚、マガジンラックや看板など、数脚の椅子以外はすべて2人で手づくりした。2024.120手づくりの棚には奥さまの故郷、高知県で親しまれている名産品が置かれている
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