第回■■■■■私は長野県の生まれです。近くには信州の名湯上■山■田■温泉がありました。三人姉妹の末っ子ですが、家が商家であったため余裕があったのか地元の女学校に進ませてもらいました。当時は、女学校まで行ける子どもは珍しかったと思います。父は商才に長けていて、いろいろ新しいことに挑戦していました。何かおもしろいことに出会うとまず自分でやってみたくなる私の性格は父親譲りかもしれません。姉の一人が東京で看護師として働いていたので、私も女学校を卒業すると姉を頼りに上京し、これからは何か手に職をつけた方がよいかと思い1年ほど洋裁を勉強しました。しかし、だんだん戦争が激しくなってきて、いったん田舎に疎開することに。そのため東京の空襲には遭わずにすみましたが、戦争の記憶はいまもしっかり残っています。戦後、再び上京し、上海から帰国したばかりの夫と出会い結婚しました。彼は紳士服の仕立て職人で、私も家のことをしながら頼まれれば近所のお子さんのズボンを縫うなど、仕立て屋の仕事を手伝いました。これが思いのほか評判がよく、次第に婦人服も手がけるようになりました。終戦から2年後に娘が生まれ、その娘が経営するレストランで98歳の私がピザ職人として働いているのですから、人生はおもしろいなあと思います。日でしたが、子育ても終わり娘が結婚すると、自分の時間がほしくなりました。もともと旅行好きだったので、40代後半で仕立ての仕事を引退して、頻繁に海外に出かけるようになりました。10歳年上の夫は76歳で亡くなりましたが、私と一緒に家業を引退して、それからは亡くなるまで、大好きな山登りとスキーに明け暮れました。娘にいわせれば変わった夫婦だそうです。日本人の海外旅行といえば欧米が人気なのでしょうが、私は南米や中東、アフリカが好きで何度も出かけました。もちろんイタリアをはじめヨーロッパも一通り回りました。各地の味に触れるなかで「本物の味」に開眼していったように思います。ピザもたくさん食べ回りました。当時は自分がピザを焼くようになるとは思っていませんでしたが、40代後半から世界を飛び回ったことがいまの仕事に役立っています。どんな経験も必ずいつか実を結ぶようです。主婦業をしながら婦人服の仕立てに励む毎魚うお河が岸しトミーナ土井スズ子さんの一人娘である冨■山■節■子■さんが経営する「魚河岸トミーナ」の店内には天井や壁などにモネの『睡蓮』が描かれている。「モネの絵のなかにいるような感覚でイタリアンを楽しんでほしい」と節子さんは語り、厨房のなかからもモネの世界に浸ることができる。好奇心が人生を豊かに彩る世界を飛び回って学んだこと土■井■スズ子さんスタッフ2024.234高齢者に聞く 土井スズ子さん(98歳)は東京・豊とよ洲す市し場じょうの一角にあるイタリアンレストランで厨房に立つ。国内はもちろん海外メディアからも注目されている土井さんだが、ご本人は今日も淡々と窯の前で自慢のピザの焼き上がりを待っている。生涯現役の理想のような日々を土井さんが笑顔で語ってくれた。90
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