エルダー2024年2月号
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紛争前の中東にも何度も行き、イランやイラク、シリアにも足を運びました。テレビで戦争のニュースが流れるたび、胸が痛くなります。海外に目を向けるようになったのは、ブラジル人の友人がたくさんいたからかもしれません。かつて私の住むマンションと同じ建物内にブラジル大使館があったため、ご近所さんはほとんどブラジル人の方でした。頻繁に部屋を行き来しては、一緒に食事をし、おいしくて珍しい料理をたくさん教えてもらいました。60年以上も交流が続くブラジルの女性たちの味が私の料理の原点であるかもしれません。夫が亡くなったのと同じ時期に、娘夫婦が築地にイタリアンレストラン「築地魚河岸トミーナ」を開店しました。私はイタリア料理の学校にも通う娘夫婦を応援するために、家の仕事や孫たちの面倒などを一手に引き受けることにしました。店は築地市場のなかにあり、新鮮な食材が手に入ります。よいものだけを選んで調理するので、本物の味に魅了されたお客さまが次第に増えました。だんだん働き手も必要になり、孫にも手がかからなくなってきたので、私もお店を手伝うことになりました。75歳でイタリアンレストランの厨房にデビューするとは思っていませんでした。最初のころは皿洗いなどが中心でしたが、5年ほど経つと、みんなが楽しく料理するのを見て、私もピザを焼いてみたくなりました。子どものころからの好奇心がわいてきて、軽い気持ちで「ピザを焼いてみよう」と思っただけなのですが、それから18年、ずっとピザを焼く窯の前に立ち続けています。私が年齢を重ねるにつれ、テレビなどの取材も増えてきました。シンガポールからわざわざ取材に来られたこともあります。みなさん、80歳からピザ職人になったきっかけや、現在も元気に働いていられる秘訣をお聞きになりますが、「好きな仕事だから」とお答えしています。移りました。豊洲に開設された飲食街は寿司を中心に和食が主流で、イタリアンが受け入れられるかどうか、様子を見ながら1年ほどお休みしていましたが、築地時代の常連のみなさんが豊洲での開店を待っていてくださいました。地を伸ばし、トマトソースをつくり、具をのせて焼く、これが私の仕事です。ピザの生地は、空気が抜け切らないように均一に伸ばすことでふんわりと仕上がるのですが、年寄りは力が弱いですから、かえって生地にほどよく空気が残ります。うちのピザは生地が厚いのですが、厚さの割には焼き上がりがふんわりしているのが特徴です。手づくりのトマトソースは、一日で使い切るようにしています。築地時代から人気があった海鮮ピザは、市場ならではの新鮮な食材をふんだんに使うので豊洲でも注文が増えてきました。同居の私は、家のことを片づけてから11時に出勤。閉店の14時まで3時間限定のピザを焼きます。「スズ子ママのピザ」と呼んで遠方から食べに来てくれるお客さまがいること、働けることに感謝を忘れず、健康に気をつけて体力の続くかぎり厨房に立ちたいと思います。市場の移転で「トミーナ」も築地から豊洲にピザは注文を受けてから発酵させたピザ生店は朝8時にオープンしますが、娘たちとスズ子さんは84歳のときにアフリカのマリ共和国を訪問している。また、節子さんによればブラジルのサンパウロを気に入って3カ月ほど滞在したこともあるという。自由人の真骨頂が80歳でピザを焼く道を拓かせたに違いない。スズ子さんは、じつにかわいらしい方である。メディアの取材は、「自分ががんばっていることでだれかを励ますことになればと思い引き受けている」とはにかむ。取材中でも注文があれば厨房に戻るが、「厨房に入ると母の背筋が伸びるようです」と節子さんが温かくスズ子さんを見つめる。生涯現役の日々を楽しく高齢者に聞く75歳で厨房に立ち80歳でピザ職人に35エルダー

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