東京都目黒区の住宅街の一角に、幡本さんが守り続けてきた「安全薬局」があり、地域の人たちは親しみをこめて「安全さん」と呼ぶ。店を訪れる人たちは長年愛用の薬を求めながら、目的は幡本さんと楽しくお話しすることだという。尊敬する父が示してくれた道戦争の世紀を生き抜いて第回■■■■■賑■やかな環境のなかで伸び伸び育ち、善■光■寺■私は長野県の長野市で生まれました。両親は東京出身ですが、仕事の関係で長野へ移り住んだそうです。家業は燃料問屋で、とてもの近くにあった女学校へ進みました。私は大正の生まれですから、当時の社会の風潮としては女性が職を持つことなど考えられず、年上の従■■姉たちは女学校を出たら花嫁修業に精を出していました。父のすすめで私が薬学の専門学校に行くことを聞いた従姉たちから、「あなたは職業婦人の道を行くのね」といわれたことを覚えています。ほんとうは、私は教師という仕事に憧れていて師範学校に進みたかったのです。ただ、父から「教師という仕事もよいけれど、薬剤師になれば生涯免状がついて回るから一生の仕事にできるし、人の役に立てる立派な仕事だと思うよ」と励まされ、薬剤師の道を選び、東京の谷■中■にあった東京薬学専門学校女子部に入学しました。現在八王子市にある、東京薬科大学の前身です。私は小さいときから父を深く尊敬しており、父のいう通りにすれば正しい道を歩めると信じていました。いま、ているのですから、やはり父には先見の明がありました。の仕事の都合で私たち一家も東京に戻ってきました。私は専門学校を卒業して薬剤師の免状ももらったのですが、1941(昭和16)年から始まった太平洋戦争の戦禍は激しくなる一方でした。お国のために働かなければと化学工場で塗料の分析の仕事をしましたが、いよいよ東京は危ないという判断で、私たち一家は以前住んでいた長野の家に疎開しました。長野でもやはり化学工場の研究室に勤めました。私はどうやらとても運が強いようです。東京でも、長野でも空襲に遭いましたがなんとか生き延びることができました。長野では機銃掃射に遭遇しましたが、危機一髪で助かっています。戦争の記憶はいまでも鮮明に残っており、再びあのような悲惨な戦争が起こらないよう祈るばかりです。娘が2人生まれましたが、2人とも私と同じ学校に進み、私の後輩になりました。そして私が女学校を卒業するのと同じ時期に、父戦後、再び上京して、縁あって25歳で結婚、薬剤師幡■■本■■圭■左■2024.34270年という長い年月を薬剤師として働き続け 幡本圭左さん(101歳)は70年にわたり薬剤師として働き続けてきた。100歳を超えたいまも白衣に身を包み、週6日は店頭に立つ。2022(令和4)年には、「世界最高齢の現役薬剤師」としてギネス世界記録に認定された。激動の一世紀を生き抜いた幡本さんが生涯現役の秘訣を語る。株式会社安全薬局91さん高齢者に聞く
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