第回■■■私は東京郊外の武■蔵■野■市で産声をあげました。千代田区九■段■上■に生家がありましたが、空襲が激しくなって家族で武蔵野市へ移りました。終戦後は九段上に戻りましたが、空襲で家屋は焼失したため、新しく家を建てて再出発しました。高校卒業後は、中央大学に進学し、日本交通公社(現・株式会社JTB)に就職しました。旅行業界というよりは、東京生まれで田舎のない私は、地方へ旅する憧れが強かったのだと思います。当時の旅行業界は現在のように競合会社がないことに加え、修学旅行や社員旅行も増えてきて、思えば華やかな時代を過ごさせてもらいました。入社してすぐは店頭業務でしたが、しばらくすると添乗の職務に就くことになり、国内をはじめ海外旅行も数多く添乗しました。また、1972(昭和47)年に日本と中国の国交が正常化すると、中国旅行を担当するようになりました。そのころの中国はいまと違い道路状況や、宿泊施設も不備が多かったのですが、事情を承知している旅行者も多く大きなトラブルはありませんでした。旅行者に旅を楽しむ心の余裕があったようにも思います。添乗員の仕事は楽しく、定年まで勤めるつもりでしたが、先輩から旅行の専門学校の講師をやってみないかと声をかけられ、新たな世界に挑戦しようと、定年を待たずに55歳で転職しました。事紹介、世界各国の事情など、多岐にわたる話をしましたが、若い人たちとの出会いも新鮮で、60歳で定年を迎えるまでの5年間、楽しい時間を過ごすことができました。と思っていた矢先、ある不動産会社が管理員を募集していることを知り、すぐに応募しました。旅行業界関連で働く道もありましたが、最後には専門学校の講師までさせてもらったので、旅行の世界はやり切ったという思いが強く、まったく違う仕事をしてみようと思ったのです。健康であれば高齢者でも常勤できる職場であったため、定年を迎えるまで12年間勤めあげました。問題はないし働く意欲も旺盛で次の仕事を探し始めました。「さすがに簡単には見つから旅行の専門学校では店頭業務や添乗員の仕さて、60歳になってこれからどうしようか田中さんと話しているとこれまでの職業によってつちかわれてきた品格を感じさせられる。滑舌がよい話しぶりは添乗員という世界で鍛えられたに違いない。専門学校の講師に誘った先輩は先見の明があった。視野を広げた添乗員の日々管理員という新しい仕事に挑戦72歳で二度目の定年を迎えたものの健康に新宿支店スタッフ田■中■■弘■■■さん2024.440 田中弘さん(80歳)は60歳の定年退職後、マンション管理員としてのキャリアを重ねてきた。かつては旅行会社で添てん乗じょう員いんとして世界を駆け巡り、旅行業界を目ざす若者のために教壇に立った経験も持つ。そしていまは、マンションのベテラン代務員として充実の日々を送る田中さんが生涯現役で働く喜びを語る。株式会社うぇるねす高齢者に聞く92
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