私は群馬県で生まれました。生家は農業と林業を兼業しており、農業といっても自分たちで食べる程度の規模でしたから、白米は6割であとは麦とサツマイモで空腹を満たしました。5人兄弟の長男で本来なら家の仕事を継ぐところですが、ありがたいことに高校に通わせてもらえました。当時、高校まで進めたのは同級生の1割程度でしたから、進学させてもらったことに感謝しながら自転車で1時間かけて通学しました。していた叔母を頼って上京。その少し前に家内と出会ったのですが、周囲に結婚を許してもらえず、駆け落ち同然で郷里を出ました。とにかく二人分を稼がなければならないので叔母の縫製工場で一生懸命働きました。縫製の技術は見よう見まねで覚えました。がんばって働き続けたかいあって、十年後には独立して、自分の工場を持つことができました。おもに子ども服や当時の女性の定番であったプリーツスカートを縫製しました。そのころ売り出し中の著名なデザイナーから注文をもらったこともありますし、航空会社の制服も手がけました。当社の洋服が銀座通りの店に飾られたこともあり、おもしろいようにお金が稼げた時代でした。■■かもしれません。とにかくおもしろいように儲かって、1970(昭和45)年開催の大阪万博には職人全員を引き連れて出かけたものです。豪勢な社員旅行でした。私自身このころは、家事や育児は家内に任せっぱなしで、週に1回はゴルフ場に通うなど勝手し放題。毎日午前様を気どっていました。という間に業績が悪化して、59歳で会社をたたむことになりました。残ったのは家と工場のローンだけでした。人生というものは下り坂になれば本当に速いです。家族が食べていくために次の仕事を求めて公共職業安定所(ハローワーク)に通いましたが、60歳目前では簡単に仕事は見つかりませんでした。専業主婦だった家内は野菜を扱う市場で働き始めてくれました。幸いにも、そのころ警備業界が人手不足で高齢者でも募集があることを知り、すぐに応募したところ採用してもらいまいま思えば、私は人生を少し甘く見ていたしかし、バブルはやがてはじけます。あっ第回「駆け落ち」という言葉を久しぶりに聞いた。その話をするときの上野さんは、少年のようにはにかんだ。高齢の交通誘導警備員としてマスコミから熱い視線を浴びる上野さんの魅力はこの笑顔にあるに違いない。縫製の仕事に没頭した日々人生下り坂でも前を向いて2024.63820歳のとき、東京都小■平■市で縫製の仕事を交通誘導警備員上■■野■敏■■夫■さん 上野敏夫さん(87歳)は、交通誘導警備員としていまも現場に立ち続けている。かつては長く縫製の仕事をしていたが、それまでまったく縁のなかった警備の世界に入って27年が過ぎた。そのパワフルな働きぶりはマスコミでも紹介され、いまや時の人となった上野さんが、生涯現役の極意を語る。日本綜合警備株式会社高齢者に聞く94
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