エルダー2025年1月号
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戊ぼ辰しん戦争最後の舞台・箱館でセカンドキャリアがスタート榎本武揚は、幕臣・榎えの本もと円えん兵べ衛えの次男として1836(天保7)年に生まれ、長崎の海軍伝習所で学んでオランダに留学した後、海軍奉行を経て海軍副総裁に就任しました。鳥羽・伏見の戦いに敗れた徳川家は、江戸城を無条件で新政府軍に明け渡しますが、このとき武揚は旧幕府艦隊の引き渡しを拒み、1868(明治元)年7月、軍艦8隻で品川から脱走し、新政府に敵対する東北諸藩を海上から支援。その後、仙台に集結した旧幕府方の兵を乗船させ10月に蝦夷地へとわたり、全島を制圧して箱館の五稜郭を拠点に政権を打ち立てました。しかし翌年5月、上陸してきた新政府軍に敗れて降伏しました。当初、新政府内では武揚を処刑すべきだという声が強かったのですが、新政府軍参謀として武揚と戦った黒くろ田だ清きよ隆たかが強く助命を主張したことで、1872(明治5)年に釈放されました。そしてなんと開拓使の官僚として新政府に雇用されたのです。開拓使は北海道開拓のためにおかれた省庁で、開拓使次官の黒田清隆が武揚を引き入れたのです。同年、武揚は箱館付近の鉱物調査のため3年ぶりに箱館を訪れました。市街の建物には弾痕も痛々しく残っていたと思われ、きっと武揚の心にさまざまな思いが去来したことでしょう。後に武揚は箱館戦争で生き残った仲間と金を出し合い、高さ8メートルの巨大な慰霊碑(碧へっ血けつ碑ひ)を建てました。ロシアとの領土問題など外交で手腕を振るう1874年正月、ロシアとの領土問題を解決するため、新政府は武揚を特命全権公使に任じペテルブルクに派遣します。幕末の日露和親条約で日露の国境は、択えと捉ろふ島とうから南を日本領、得うるっぷ撫島とうより北をロシア領とし、樺から太ふと(サハリン)については両国人雑居の地となっていました。ところがその後、ロシアが樺太支配をもくろみ、囚人や軍人を送って日本人の村に圧迫を加えるようになります。日本政府は北海道の開拓だけで手一杯だったので、やむなく樺太を放棄することにしました。その交渉役としてオランダに留学経験があり、外交交渉も巧みな武揚が全権使節に任じられたのです。渡海前、武揚は海軍中将に任命されました。海軍大将は存在しなかったので、海軍の最高位でした。日本全権としてふさわしい地位を与えたのだといいます。交渉で武揚は樺太を放棄するといわず、あえて日露の国境を定めてほしいと主張しました。しかしロシア側は全島の領有を主張。これに妥協するかたちで武揚は、得撫島と近くの三島、ロシアの軍艦、樺太のクシュンコタンを無税の港とするこ2025.134セカリアドンキャ偉人たちの歴史作家 河かわい合敦あつし歴史作家河合敦第2回旧幕府軍から新政府の要職に就任若くして始まったセカンドキャリア榎えの本もと武たけ揚あき

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