ただ、それから6年後の1897年、武揚は政界からの引退を決意します。原因は足尾銅山の鉱毒問題でした。鉱毒が周辺地域の農業や漁業に多大な被害を与えていました。栃木県出身の衆議院議員・田た中なか正しょう造ぞうは、議会でこの問題を取り上げていました。1894年、銅山を管轄する農商務大臣になった榎本武揚は、大臣として初めて被害農民の代表と会い、現地へも視察に出向きました。そして、被害の大きさに衝撃を覚えて鉱毒調査委員会を設置します。しかし銅山側と政府高官が結託していたらしく、なかなかそれ以上の対応がむずかしく、責任を感じた武揚は大臣を辞職、以後、政府の要職から去ったのです。政界を引退してからの武揚は、徳川育英会など14団体もの名誉会長をつとめ、精力的に会合に出席して運営にかかわったり、墨ぼく堤ていの自宅に知己を招いて旧事を談じ大杯を傾ける日々を送ったそうです。1907年、武揚は久しぶりに函館(箱館)へ出向き、戦友が眠る碧血碑を詣でました。すでに71歳になり病気がちだったので、訪問できる最後の機会だと思ったのかもしれません。いったい碑前で何を思ったのでしょうか。翌1908年10月27日、武揚は息を引き取りました。セカンドキャリアでは新政府の顕官となった武揚。葬儀にはそんな彼の徳を慕い8000人が会葬に訪れたといいます。は海軍卿に就任しています。さらに1882年、駐在特命全権公使となって清国に赴任。次いで伊い藤とう博ひろ文ぶみが初代総理大臣として組閣した際、武揚は幕臣で唯一入閣し、逓信大臣となりました。いま述べたほかに、皇居造営御用掛、農商務大臣、文部大臣、外務大臣を務めています。このように武揚は何をやらしてもソツなくこなしてしまう万能の人でした。61歳で政界を引退碧血碑の前で何を思う1891年、旧幕臣で慶應義塾の福ふく沢ざわ諭ゆ吉きちは、幕臣でありながら新政府の顕官になった勝かつ海かい舟しゅうと榎本武揚を批判する論稿を書き上げ、本人たちに送りつけて意見を求めました。諭吉は、武揚が幕臣として蝦夷地で新政府に抵抗したことを評価しつつ、その後の身の処し方について「社会から身を潜めて質素に暮らすべきなのに、降伏した後に新政府に出仕して富や名誉を得た。戦死した仲間や落ちぶれた旧友に対し、慚ざん愧ぎの念がないのか」と批判し、「まだ遅くはないので非を改め、遁とん世せいすべきだ」と武揚に引退を要求したのです。武揚はこの書を黙殺していましたが、諭吉がしつこく回答を求めたので、仕方なく「あなたの述べていることは事実と違うこともあり、私の考え方もある。しかし、いまは多忙なので後日、愚見を述べる」と返書しました。とを要求したのです。最終的に、樺太を渡すかわりにロシアに「千島列島を日本領とすること。十年間のクシュンコタンの無税化。近くでの漁業権」を認めさせ、1875年5月に千島・樺太交換条約を結びました。条約締結後、武揚はヨーロッパ各地をめぐって見聞を広げ、その後はペテルブルクでロシアの情報を調べて本国に送り、1878年に帰国します。帰国にあたって武揚は、ペテルブルクから馬車でシベリアの一万キロ以上を踏破して北海道から日本へ戻ってこようと思いたちました。家族宛の手紙には、「日本人はロシア人を大いに恐れ、今にも北海道を襲うのではないかと言っている。そんなことは全くのデマであることを私はよく知っている。だから私はロシアのシベリア領を堂々と踏破し、その臆病を覚ましてやるのだ」といった内容が書かれています。そして帰国旅行では、シベリアの政情、軍事、経済、文化、施設や工場、言語や自然、住人や宗教などあらゆるものを書きとめました。例えば、狼が急に現れて馬車に伴走し身の危険を感じたこと。南京虫や蚊、アブやブヨに苦しまされたこと。罪人の流刑地での悲惨な生活。蜂の巣のまま蜂蜜を食べる風習など。こうした記録は、いまとなってはたいへん貴重なものといえます。帰国後の1879年、武揚は外交的手腕を買われて外務大輔(次官)に登用されますが、翌年にエルダー35セカリアドンキャ偉人たちの
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