エルダー2025年2月号
40/68

□□正□に預け、わずかな供回りを連れて上方へのぼり立花宗茂は、九州柳□川□の戦国大名です。宗茂が関ヶ原合戦の際に西軍(石□田□三□成□方)に身を投じたのは、亡き太閤(豊□臣□秀□吉□)の恩に報いるためだったといいます。かつて宗茂は、豊後の大□友□宗□麟□の重臣でした。関ヶ原合戦から14年前の1586(天正14)年、薩摩の島津氏の大軍が大友宗麟の豊後領内へ攻めこんできました。次々と大友方の城や砦が落ち家臣たちが降伏していくなか、宗茂は攻め寄せる島津の大軍をたびたび奇襲攻撃で翻弄し、相手が撤退するのを見ると、猛追して撃破したのです。こと、すぐに大坂城へ出向いて総大将の毛□利□輝□元□に抗戦を説きましたが、すげなく拒まれてしまいました。このため仕方なく、海路で柳川へ戻って籠城の準備を整えました。しかし東軍の大軍に包囲され、到底かなわないと判断して降伏しました。宗茂には改易(取り潰し)という厳しい処分がくだされました。宗茂が柳川城から去る際、領民たちが集まって行く手をふさぎ、「出ていく必要はございません。私たちが命を捨てる気持ちは、あなたの家臣と変わりありません。どうぞ城にお残りください」と哀願したといいます。すると宗茂はわざわざ馬から下り、領民に礼を述べ、「柳川の支配は今後も変わりないので安心せよ。お前たちがこのようなことをすれば、却って私のためにならぬ。さあ、帰るのだ」と説得しました。この言葉に農民たちは声をあげて泣いたといいます。宗茂が領民に慕われていたことがよくわかる逸話です。こうして戦国大名としての宗茂のキャリアは終わりを告げました。宗茂はその後、旧臣の多くを熊本城主の加□藤□清□ました。徳川家に御家再興を求めるためでした。高□次□の大津城を攻めていたので、関ヶ原本戦には□□□□□□いん□□□□□□□□□□□□□□□□ちなねげ□□□ のときまだ、宗茂は二十歳でした。援軍にきた豊臣秀吉がこの奮闘を知ると、宗茂を「鎮西一」とたたえ、翌年、筑後国柳川13万2000石を与えて独立の大名に取りたて、豊臣の直臣としたのです。まさに大抜擢でした。それからも秀吉の寵愛をうけ、皆の前で「宗茂は本□多□忠□勝□(家康の重臣)と並んで東西無双の者どもだ」といったそうです。こうした厚恩をうけたので、宗茂は豊臣政権を破壊して天下を握ろうとする家康に対し、迷うことなく敵対したのでしょう。しかし、宗茂は東軍(家康方)に寝返った京□極□間に合いませんでした。そこで味方の敗北を知るさまざまなスキルの習得を経て大名として復活を遂げる秀吉の寵愛を受けた〝鎮ち西ぜ一〟の猛将粘り強く己を磨き徳川3代に仕えたセカンドキャリア立た花ば宗む茂し偉人たちの第3回2025.238□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□歴歴歴歴歴歴歴歴歴歴歴歴歴歴歴歴歴歴歴歴歴歴歴歴歴歴歴歴歴歴歴歴歴歴歴歴歴歴歴史史史史史史史史史史史史史史史史史史史史史作作作作作作作作作作作作作作作作作作作作家 家 家家家家家家家家家家家家河河河河河河河河河河河河河河河河河河河河河河河河河河河河河河河河河河河河河河河河河河河河河河河河河河□河□□合合合合合合合合合合合合合合合合合合合合合合合合合合合合合合合合合合合合合合合合合合合合合合合合合合合合合合合□合合敦敦敦敦敦敦敦敦敦敦敦敦敦敦敦敦敦敦敦敦敦敦敦敦敦敦敦敦敦敦敦敦敦敦敦敦敦敦敦敦敦敦敦敦敦敦敦敦敦敦敦敦敦敦敦□敦□

元のページ  ../index.html#40

このブックを見る