エルダー2025年2月号
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始めると働きたい気持ちが強くなりました。とはいえ正式に働くのはまだ無理でしたから、近所の雑貨屋を手伝ったり、モデルルームや倉庫の番をしたり、トイレ掃除もやりました。声をかけてもらうとあらゆることをやりましたが、どんな仕事も本当に楽しかったです。下の子が高校3年生になったとき、まずはパートで働こうと、新聞広告でみつけた銀行の外国為替課で、週3日間働くことになりました。かつての銀行ならパートタイマーとはいえ、私など採用してもらえなかったでしょうが、そのころ銀行も人手不足に悩み、パートを大量に採用した時期でした。外国為替課なので英語にアレルギーがないことが採用につながったようです。受験勉強で英語のおもしろさにはまって大学でも英語をしっかり学びました。人生に無駄なことは何一つないようです。かったです。入社して6年目に自分から望んでフルタイム勤務になり、65歳で定年を迎え下の子が保育園に入って時間的に余裕が出パートとはいえ人事異動もあり、結構忙し私は宮崎県日□南□市の生まれです。市内の高校を卒業後は、東京の大学に進みました。兄が2人いますが、すでに東京で大学生活を送っていた二番目の兄を頼って上京しました。父は地元にあった製紙関係の会社員で、母は小学校の教師でした。自分と同じ教師の道に進むことを密かに願っていた母の気持ちを汲みながら、教員免許の取得を口実に地元を離れたように思います。高校時代から英語が好きだったので教師の道もあるかなと思いつつ、日ごろ激務をこなす母の姿を見続けてきたので、どこか冷めていたようにも思います。ただ、教員免許を取るという母との約束は守りました。教育実習も経験しましたが、結局母の願いをかなえることはできませんでした。大学を卒業して就職したものの、結婚が早かったのですぐに家庭に入り、下の子が3歳になるまでは専業主婦でした。当時の風潮では仕事と育児の両立など考えられませんでしたし、意外だったのは仕事一筋であった母が、私に子どもが生まれると「子どもが小さいうちは一緒におってやらにゃあいかん」などといい出したことです。教師の仕事が忙しく、不在がちであった母の言葉としては不思議な気がしましたが、母なりに辛さを抱えながらの日々であったのだと、自分が母になってようやく気づきました。第回□□村井環□□ 母の背中を追いかけながら働くことは楽しいこと終始落ち着いた雰囲気で言葉を選びながら静かに語る村井さん、教職に進めば素敵な先生になっていたに違いない。家庭に入ったものの外に出たい気持ちは膨らんでいく。働き続けた母の姿に自身を重ねるようになった。□□ 美CADオペレータ□2025.244さん株式会社サルバス・ケイエヌ設計 村井美環さん(66歳)は17年間勤めた銀行を定年退職したあと、「東京キャリア・トライアル65」を利用して設計会社に就職。CADオペレータとして第二の人生を歩み始めて1年が過ぎた。 それまで経験のなかったまったく新しい世界で意欲的な日々を送る村井さんが、生涯現役で働く喜びを語る。高齢者に聞く101

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