エルダー2025年3月号
32/68

遣唐留学生の経験を経て地方役人から国政へ吉備真備は、日本史(日本史探究)の教科書すべてに掲載されている最重要人物です。奈良時代に唐(中国)に渡り、帰国後は朝廷で大きな活躍をした政治家です。真備は、備びっ中ちゅう国(岡山県)の下級役人(下しもつみちのくにかつ道国勝)の子として生まれましたが、たいへん優秀だったので遣唐留学生に選ばれ、17年の長きにわたって唐で学びました。最新の学問知識をおさめるだけでなく、帰国の際に貴重な書籍や楽器、武器などを大量に持ち帰ったので、正六位上を与えられ大学寮の大学助につきました。大学寮は中央の官吏養成機関、大学助は大学の副学長のような職です。その後、従五位下に昇進します。従五位以上は貴族に分類されるので、地方役人の子としては異例の出世といえるでしょう。そして以後は、橘たちばなの諸もろ兄え政権のブレーンとして活躍するようになりました。740(天平12)年、藤ふじ原わらの広ひろ嗣つぐが吉備真備などの排除を求めて九州で反乱を起こしていることからも、真備の政治力がわかります。翌741年、真備は皇太子・阿あ倍べ内親王の東宮学士、いわゆる教育係となり、彼女に『礼記』や『漢書』などを講じ、帝王としてのノウハウを伝授しました。跡継ぎの教育を任せるほど、時の聖しょう武む天皇は真備を信頼していたわけです。743年には春とうぐうの宮大だい夫ぶ(皇太子の家政機関をつかさどる職)になります。こうした功績を評価され、749(天てん平ぴょう勝しょう宝ほう元)年に阿倍内親王が即位して孝こう謙けん天皇となると、従四位上に叙されています。50代で左遷され再び中国へところが、です。それからわずか半年後、真備は九州の国守として左遷されてしまいました。さらに翌年11月、なんと遣唐副使に任命されたのです。17年間も遠く離れた異国の地(唐)で苦学してきたのに、50代後半(当時は老齢)になって、またも唐へ行けというのはあまりにひどい話です。当時の航海はたいへんな危険をともなうもので、途中で遭難して日本にもどって来られない遣唐使船も少なくありませんでした。しかも、遣唐大使の藤ふじわらの原清きよ河かわの身分は従四位下。つまり、副使の真備より位階が低かったのです。そういった意味では、屈辱的なあつかいを受けたといえるでしょう。こうした真備の失脚劇は、藤ふじわらの原仲なか麻ま呂ろの策略だったと考えられています。このころ、政界では橘諸兄が力を失い、光こうみょう明皇太后(聖武天皇の皇后)の後ろ盾を得た仲麻呂が台頭してきました。仲麻呂は孝謙天皇が敬愛する真備を危険視し、中央政府から遠ざけたのでしょう。753年冬、真備は無事に唐の都・長安に入っ2025.330セカリアドンキャ偉人たちの歴史作家 河かわい合 敦あつし歴史作家 河合 敦第4回生涯現役で朝廷を支えた政治家吉きびのまきび備真備

元のページ  ../index.html#32

このブックを見る