異例の栄達でした。さらにその後、大納言に昇進します。いまでいえば閣僚クラスの役職です。このように、壮年期は橘諸兄政権のもとで政治力をふるった真備ですが、50歳を過ぎてその存在を危険視され、長年不遇の生活をおくることになりました。しかし、それにめげずに腐らず、己の職務を淡々とこなし、ここぞというときにすばやい行動に出て、70歳を過ぎてから再び返り咲いたのです。それが可能だったのは、若いときに獲得した兵学などの知識やスキルのおかげでした。閣僚となった真備は、朝廷に申請して民の直訴制度を設けます。中壬生門に二本の柱を立て、一本の柱前では役人たちの圧政に対する直訴、もう一本の前では無実の罪を負わされた者の訴えを聞いたといいます。これによって役人の綱紀をただし、民をしいたげることのないようにしたのです。766(天てん平ぴょう神じん護ご2)年、真備は正二位を与えられ、右大臣となりました。いまでいえば副首相の地位にあたります。すでに72歳になっていましたが、在職中は律令(法律)の改定などに力を注ぎました。その後、老齢ゆえに引退を申し出ますが、なかなか認められず、ようやく許可が出たのは77歳のときのことでした。そしてそれから4年後、真備は81歳で生涯を閉じました。を考えたのです。しかし、それが受理される前に、造ぞう東とう大だい寺じ司しに抜擢されて平城京に戻ることになりました。このころ、仲麻呂と孝謙上皇の関係が悪化していたので、おそらく孝謙上皇が敬愛する真備を呼びもどしたのでしょう。けれど、帰洛しても真備はすぐに出仕せず、しばらく療養生活をおくっていたようです。慎重に当時の政治状況を見極めようとしていたのかもしれません。この間、政変がおこったのです。孝謙上皇の寵愛する道どう鏡きょうに実権をうばわれそうになったので、仲麻呂が挙兵したのです(恵え美みの押おし勝かつの乱)。このとき老齢だったにもかかわらず、真備は己の軍事知識を総動員して乱の平定に動きました。『続日本紀』には、「大臣(吉備真備)、その(仲麻呂が)必ず走らむ(逃亡する)ことを計りて(予測して)、兵を分けこれ(仲麻呂軍)を遮る。指し麾き(指揮)部分、はなはだ籌ちゅう略りゃく(謀や計略)あり。賊(仲麻呂軍)ついに謀中(策略)におちいり、旬日にして悉く平ぐ(平定された)」とあります。つまり、仲麻呂の逃走経路を想定して軍を二手にわけ、挟撃して倒すという作戦を立てたのです。こうして仲麻呂は追い詰められ、敗死しました。この働きが評価され、真備は従三位に叙され、参議(太政官の議政官)中衛大将(武官の高官)にのぼりました。地方役人出身の真備にとって、て玄げんそう宗皇帝に謁見、翌年どうにか帰国することができました。しかし、その後も厳しい現実が待ちうけていました。大役を果たしても位階は上がらず、それどころか、帰国してすぐに大宰大弐に任命されたのです。大宰府は博多の近くにある迎賓館兼役所で、大弐はその責任者。つまり、またも九州に飛ばされてしまったわけです。しかも、その在職期間は9年の長きにわたりました。このように、仲麻呂に恐れられた結果、悲惨な晩年をおくることになったのです。ただ、ちょうどこのころ、日本と新しらぎ羅(朝鮮の国家)の関係が悪化し、仲麻呂は新羅征伐を計画するようになります。このとき仲麻呂の命令で遠征計画を立てたのが真備でした。海外事情に精通し、兵法や築城術にくわしかったからです。真備は詳細な遠征計画を立てるとともに、甲冑などの武器製造を開始、同時に新羅軍から九州を防衛するため怡い土と城を築城しました。しかし結局、遠征は中止されました。若いころからの学びを活かし70代まで国政の最前線へ764(天てん平ぴょう宝ほう字じ8)年、真備は70歳をむかえます。当時としてはたいへんな高齢で、体調も思わしくないので朝廷に辞表を提出しました。引退エルダー31セカリアドンキャ偉人たちの
元のページ ../index.html#33