高齢者に聞く第 回2025.336激動の時代を生き抜いて私は大分県別べっ府ぷ市に生まれました。九州男児という言葉がありますが、私はいたって軟弱な人間です。三人兄弟の次男坊で、高校まで地元で過ごしました。女手一つで育ててくれた母には感謝しています。高校を卒業すると大学受験のために上京しました。頼る人もいなかったのですが、漠然と東京の大学を目ざしていたように思います。志望の大学に入れず1年浪人生活を送りましたが、東京というところはおもしろくてさまざまなアルバイトをしました。浅草六区にあった劇場でも働きましたが、刺激的な世界を懐かしく思い出します。結局、東京の大学には進まず、京都大学に入学しました。私が入学したころはちょうど全国の大学で大学紛争の嵐が吹き荒れている真っ最中で、その余波を受けて、京大でも学生運動が本格化していました。同じ時期に京大のなかに「熊野寮」という学生自治寮が設立され、私の大学生活の拠点となりました。いつの間にか自治寮の運動が日々の中心になり、委員長を引き受けました。大学には人より長く在学しましたが、学問に励んだ記憶はほとんどありません。熊野寮には全国からユニークな学生たちが集まって起居をともにしました。いまでも同窓会を続けて交流を深めており、私の原風景はここにあるような気がします。京都大学熊野寮は知る人ぞ知る男子寮であったが、現在は女子学生や留学生にも門戸が開かれている。1960年代という激動の青春時代を送った橋本さんだが、闘士の面影は見当たらない。「ただの古本屋の親父です」と語る橋本さん。眼鏡の奥の目がやさしい。縁あって「本の世界」へ大学を卒業後は、教職に就きました。兵庫県にあった工業高校でした。とてもよい学校だったのですが、教師という職が肌にあわなかったのか1年ほどで辞め、再び上京して新しい職を探し始めました。大学時代の仲間の一人が勤めていた出版社を紹介してもらいましたが、採用に至りませんでした。それでも友人とはありがたいもので、今度は書店を紹介してくれる人がいて、錦糸町にあった書店に店員として勤めることになりました。このころはいまと違って街には書店が数多く存在してとても賑わっていました。私が就職した書店も首都圏に何十軒も店舗を展開しており、書店に勢いのあった時代です。ただ、そのころ書店業界には大学で学生運動をしていた人間が数多く就職しており、従業員も待遇改善などを求めてストライキが頻繁に行われ悠ゆう山ざん社しゃ書店橋はし本もと 直なお次じ郎ろうさん 橋本直次郎さん(77歳)は40代で書店を開業して以来、いまも「本の世界」にかかわり続けている。時代の流れのなかでインターネットで古書を販売 するスタイルに変わったが、古書を愛してやまない人たちのために現在も フルタイムでパソコンに向かう橋本さんが、生涯現役の醍醐味を語る。102
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