エルダー2025年4月号
34/68

49歳で隠居した後に夢であった学問の道へ伊能忠敬は、日本中を歩いて正確な日本地図 『大だい日に本ほん沿えん海かい輿よ地ち全ぜん図ず』をつくった人物です。しかもその偉業は、セカンドキャリアでなされたものでした。今回は、そんな忠敬について紹介したいと思います。上かずさのくに総国小こ関せき村むらで生まれた忠敬は、幼いときに母を亡くし、婿養子だった父は再婚してしまいます。そこで忠敬も18歳のとき、下しもうさの総国くに佐さ原わら村むらの伊能家に婿入りしました。伊能家は酒造業や米の売買などを営む商家でした。学問好きな忠敬は学者として身を立てたいと考えていたのですが、大好きな学問を絶って家業に専念しました。これまでの商売に加え、炭問屋や運送業など手広く商いを広げ、巨額の財を成しました。37歳のときに佐原村の名主に選ばれ、在任中は利根川の堤防工事に力を尽くしました。また、飢饉で苦しむ村人を私財で救ったので、人々から尊敬を集めました。功成り名遂げた忠敬は、長男の景かげ敬たかに家督をゆずって隠居しました。まだ49歳でしたが、当時としてはすでに老年です。隠居後は余生をゆったり過ごすのが一般的でしたが、翌年、忠敬は住居をにわかに江戸の深ふか川がわへ移し、江戸幕府の天文方・高橋至よし時ときに弟子入りしたのです。若いころに断念した学問へ夢をかなえようとしたのです。どうしても学者になる思いを断ち切れなかったのだと思います。天文方というのは、天文観測や改暦、測量や地誌の編纂などを行う幕府の役職です。ただ、師の至時は忠敬より19歳も年下でした。けれど忠敬は心から至時を尊敬し、だれよりも熱心に知識を吸収しようとしました。すでに老年でしたから、物覚えはよくありません。けれど、そのハンデを努力で補いました。そんな根気強さと熱意に打たれた至時は、持ちうるかぎりの知識や技術を老弟子に伝授していきました。結果、忠敬は5年ほどで至時の持つすべての学識を習得し、第一の高弟と目されるようになったのです。たとえ能力が高くなくても、コツコツ真面目にやることが大切だとわかります。忠敬は天文学や測量学を好み、なんと、自宅に天文観測所をつくってしまいます。そしてなるべく外出をひかえ、用事も午前中ですまし、午後に準備を調え、夕方から嬉々として天文観測に励みました。物事に入れこむ質だったようで、天文観測に凝っているときは人とあまり話をせず、師の至時と学問上の討議をしているときも夕方近くになるとそわそわし、途中で席を立って帰宅することもありました。脇差しをはじめ身の回りの持ち物を忘れていくこともしばしばでした。2025.432セカリアドンキャ偉人たちの歴史作家 河かわい合 敦あつし歴史作家 河合 敦第5回精巧な日本地図をつくった偉人伊い能のう忠ただ敬たか

元のページ  ../index.html#34

このブックを見る