エルダー2025年4月号
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図作成を命じられ、自ら陣頭指揮をとり10月末に完了しました。これが、忠敬の最後の測量となりました。忠敬が測量に費やした時間は9年半、測量した距離はおよそ4万km。地球を一周する長さでした。いつも測量が順調に進んだわけではありません。弟子や近親の不幸、測量隊の不和があり、さらに持病のマラリアや喘息、痔に苦しみながらの測量旅でした。最後の測量を終えた忠敬は、持病の喘息の発作をたびたびくり返すようになり、翌年春には床につくことが多くなり、1818年、73歳で永眠しました。臨終の際、忠敬は「このような事業を成し遂げることができたのは、高橋至時先生のお陰だ。先生の傍らに葬ってほしい」と遺言。こうして忠敬は至時が眠る浅草の源空寺の墓の隣に埋葬されました。未完成だった忠敬の地図は、至時の子・景かげ保やすの手によって仕上げられ、1821(文政4)年に『大日本沿海輿地全図』として幕府の老中らに提出されました。あらためて伊能忠敬のセカンドキャリアをみて思うに、「情熱さえあれば、人はいくつになっても偉業を成し遂げることは不可能ではない」ということがわかります。で病没してしまいます。洋書の翻訳と研究に没頭し、無理が祟って病に倒れたといわれています。記録には残っていませんが、きっと忠敬は大いに嘆き悲しんだことでしょう。同年8月、忠敬は東日本の地図を仕上げて幕府に献上しましたが、この地図は将軍家いえ斉なりも上覧し、忠敬は十人扶持を与えられ幕臣(小普請組)に登用されました。ただ、それからも忠敬は測量の旅を続けました。心底、地図づくりが好きだったのです。測量のためなら命も惜しくないと思っていたようで、1811年の九州とその島々を実測する長旅では、出立の際、資産分配を記した書簡を家族に与えています。このとき忠敬は66歳でした。この旅では、右腕として頼りにしてきた弟子の坂さか部べ貞てい兵べ衛いが感染症にかかり、手当ての甲斐もなく43歳で亡くなりました。ショックだったのでしょう、以後、忠敬は測量隊員たちを叱らなくなったといいます。このとき忠敬は「鳥が翼をもがれたようなものだ」と辛い心情を家族に手紙で伝えていますが、じつはこのとき、長男の景敬も病死していたのです。家族は測量に障ることを恐れ、その事実を忠敬に知らせなかったのです。情熱を持って偉業を成し遂げた忠敬のセカンドキャリア1816年8月、忠敬は幕府から江戸府内の地私財を投げ打ち蝦夷地の測量へその精巧さに幕府も驚嘆やがて忠敬は、地球の大きさを知りたいと考えるようになります。同じ経度にある2点の距離と緯度の差から地球の大きさは計測できます。そこで自宅(深川)から天文方の屋敷(暦局)がある浅草の蔵くら前まえまでたびたび歩測測量を行いました。ただ、2点の距離は離れていればいるほど、正確な数値が算出できます。そこで忠敬は、至時を通じて蝦夷地を測量して正確な実測図をつくりたいと幕府に申し入れました。1800(寛かん政せい12)年閏うるう4月にようやく許可が出ますが、測量費用は忠敬の私財があてられ、幕府はわずかな補助しか提供しないことになりました。しかし喜んだ忠敬は少人数で同月19日に深川を出発、海岸沿いを歩測しながら北へと向かっていきました。険しい岸壁もよじ登って測量したので、襟えりもみさき裳岬近くの岩場で草わらじ鞋が切れ、素足のまま立ち往生することもありました。ただ、完成した地図を見た幕府の閣僚はその精巧さに目を見張り、翌1801(享きょう和わ元)年、今度は三浦・伊豆半島から房総・常磐・三陸・下北半島までの測量を命じたのです。さらに翌年の第三次測量では、費用のすべてを幕府が負担し、測量隊の人数も大幅に増員されました。1804(文化元)年、師の至時が41歳の若さエルダー33セカリアドンキャ偉人たちの

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