高齢者に聞く第 回2025.434多くの人に支えられ教職に邁進した日々私は山梨県北ほく杜と市で生まれました。桜の名所が点在する風光明媚な土地柄です。明治生まれの両親の末っ子ですが、父は農家の長男で公務員、母は高家の娘で心豊かな母でした。小・中学校までは地元の学校に通いました。小学校のときの女性の先生が音楽やダンスに優れ、隣村小学校との交流、ラジオ出演や県大会出場など広い世界へいざなってくれました。この楽しい経験が後の進路や趣味につながったと思います。高校を卒業後は上京し、東京学芸大学へ進みました。教員になりたい思いが強かったからです。学生運動が盛んな時代でしたが、染まることもなく、充実した学生生活を送ることができました。大学を出て最初に赴任したのが東京都北区の小学校でした。憧れの教師になれたのですから、教壇に立ったときの喜びはいまも覚えています。その後、結婚にともなって生活拠点が世田谷区に移りました。2人の子どもを育てながら、定年まで教員生活を続けることができたのは、夫はもちろん、親戚や同僚の協力のおかげだと思っています。じつは子どもが小さいころ、預ける先を探すのがひと苦労で、自主学童保育を運営したこともあります。それが後に行政を動かして正規の学童保育施設の誕生につながっていきます。定年退職後は、私にとって恩返しの旅が始まりました。教師が天職という田中さんもたった一度だけ退職しようかと悩んだことがある。教頭に就任したころ、夫が病に倒れた。介護に専念しようとしたら「続けなさい」と、企業戦士の夫が強く背中を押してくれた。恩返しのために一歩ふみ出して2歳年上の夫は54歳という若さで亡くなりましたが、仕事をする私を最後まで応援してくれたことから、定年まで教職を通じて一人でも多くの子どもたちの未来を支えていきたいという気持ちが強くなりました。学級担任をしていたころ、子どもたちによくいい聞かせてきたことが二つあります。それは「弱い者いじめをしないこと」と「失敗をしてもくよくよせず次の行動に活かすこと」です。80歳になったいま、考えてみればこれは私たち高齢者にもいえることかもしれません。その後、校長となり、60歳で教職生活に別れを告げました。それからの10年間は世田谷区のさまざまな事業にかかわり、世田谷文学館や総合庁舎、区民講座などで働きました。70歳まで区の仕事をしてから、いよいよ念願だった地域へ足をふみ出すことになりました。世田谷区には「学童クラブBOP」があります。BOPとはBase Of Playing(遊びの基地)狛江市シルバー人材センター駄菓子屋「狛もん」販売員田た中なか 映えい子こさん 田中映子さん(80歳)は教育畑一筋に人生を歩んできた。定年退職後、地域でさまざまな活動を展開しながら、現在は駄菓子屋の店先で子どもたちを笑顔で迎えている。店に集う子どもたちはもちろん、若いお母さんたちのよき相談相手にもなっている田中さんが、生涯現役で働くことの喜びを語る。103
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