エルダー2025年4月号
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エルダー3日高 人に教えることはおもしろかったのですが、それだけではなく新薬の知識のインプットも必要です。ときには営業に帯同し、医師に対して新薬の紹介を行いました。そこでマーケットがどう考えているのかも理解することができました。介護や保険など疾患や治療以外の周辺の幅広い知識も必要になるので、自分でもかなり勉強しましたね。―その後、ダイバーシティ推進室長になられるわけですが、新たなキャリアへの挑戦ですね。日高 学術の仕事を20年近くやりました。課長職となり、最初女性は私一人でしたが、その後何人か配属され、後進の道もつくれたと思います。そのころには娘が大学進学で自宅を離れることになり、私も気兼ねなくどこにでも行けるということで、帝人の社内公募で「ダイバーシティ推進室長」に応募したのです。どんな仕事をするのか本当のところよく知らなかったのですが、それまでの実体験で「どうにかなる」と思ったのです。長く同じ部署にいたので「自分のポジションを空けなければ」という気持ちも応募のきっかけでした。室長としては3代目です。当時の人財部は大阪にあり、1年ほどして部署ごと東京に移ることになりますが、異動後、外部の人との出会いが一挙に増えました。大阪では50社ぐらいの企業のダイバーシティ推進担当者が集まる「ダイバーシティ西日本勉強会」に参加し、仕事のアドバイスをもらったり、さまざまなことを学びました。勉強会は、もともと前任の室長が立ち上げたという経緯もあるため、帝人はダイバーシティのフロントランナーとして知られており、問合せへの対応も多く、そのたびに勉強しました。単身赴任で東京に異動してからも、時間は自由に使えるので、ダイバーシティにかぎらず、人材開発やキャリア開発の勉強会にも積極的に参加しました。ることがわかりました。出産後、半年ほど育児休職したのですが、のちに帝人での総合職の育休取得第1号だったことを知りました。 当時は学術部に所属し、営業部門の教育担当として、MR(医薬情報担当者)の資格試験の教材の開発や研修も行いました。本部は東京にあり、私は近畿圏全体を一人で担当し、研修教材作成などの会議のため月に2~3回は東京に出張をしていました。―育児と仕事の両立を実践しながら、充実した日々を過ごされていたのですね。50代で社内公募を利用しキャリアチェンジ社外での学び・人脈が次のキャリアにつながる

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