エルダー2025年5月号
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異例の人事で苦労をするも百戦錬磨の経験を活かし信頼を獲得大岡越前守忠相は、名奉行として知られていますが、彼の見事なお裁きを集めた『大岡政談』はフィクションです。ただし、非常に有能な幕府の官僚であったことは間違いありません。日本史の教科書でも、八代将軍徳川吉よし宗むねの享きょうほう保の改革を支えた江戸町奉行として登場します。例えば、江戸の防火対策として、屋根の瓦葺きと土蔵造を奨励したり、延焼防止や避難場所確保のため多くの火除地を新設したり、町火消を組織して消火活動に町人を参入させたりしています。また、将軍吉宗が小石川薬園内に貧民のための無料診療所(養生所)をつくることを決めた際に、実際に開設に尽力したのは忠相でした。さらに地方御ご用よう掛がかりも兼務し、地方功者と呼ばれる田た中なか丘きゅう隅ぐら農政官僚を使って武蔵野新田を造成したり、堤防強化と浄水のため小金井を中心に玉川上水両岸に桜樹を植えたり、酒さか匂わ川に強固な堤防を構築させたりもしています。救荒用作物としてサツマイモの栽培を普及すべきだと献策した青あお木き昆こん陽ようを登用したのも忠相でした。このように江戸町奉行として20年にわたって八面六臂の活躍をした忠相でしたが、還暦を迎えた1736(元げん文ぶん元)年8月、大名しか就けない寺社奉行に栄転しました。寺社奉行とは、譜代大名が就く役職です。異動の際、2000石を加増されたとはいえ、約6000石の旗本に過ぎない忠相がなれる役職ではありません。実際、異例の人事で、旗本の寺社奉行は前代未聞のことでした。このため、忠相は同僚たちのいじめを受けてしまいます。例えば、江戸城に登城した際、忠相が寺社奉行の控え室に入ろうとすると、相役の井いの上うえ正まさ之ゆきから「ここは奏者番の詰め所であって、あなたが入れる部屋ではない」と入室を拒まれました。じつは寺社奉行は、奏者番を兼務するのが慣例だったのですが、忠相は旗本だったこともあり奏者番には任命されていなかったのです。これを逆手にとって、井上ら寺社奉行の面々は嫌がらせをしたのでした。また、寺社奉行は、将来、若年寄や老中になる前途有望な青年大名の出世コースでもありました。そのため、還暦の忠相とほかの奉行たちとは、親子以上の歳の開きがありました。つまり、石高だけでなく、年齢のうえでも異例な存在ゆえ、周りから煙たがられてしまったのでしょう。忠相にとって、新しい職場は針のむしろだったはずです。なお、冷遇されていることを聞き知った将軍吉宗は、哀れに思って忠相のために特別な詰め所をつくってあげたそうです。ただ、さすが百戦錬磨の忠相、しばらくすると相役たちから敬愛されるようになりました。同僚が自分を見下しても怒らず、むしろ積極的に彼ら2025.528セカリアドンキャ偉人たちの歴史作家 河かわい合 敦あつし歴史作家 河合 敦第6回町奉行から大名相当にキャリアチェンジ大おお岡おか越えち前ぜん守のかみ忠ただ相すけ

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