高齢者に聞く第 回2025.53413歳で出会った天職私は1922(大正11)年に東京の神かん田だで生まれましたが、その後は東京市内を転々としました。東京市が東京都になったのは1943(昭和18)年のことでした。3人兄弟の長男の私は13歳で奉公に出されます。尋常小学校を卒業して高等小学校に進んだものの1年で中退しました。そのころ住んでいた巣す鴨がもにあった大衆演劇の演芸場に通っては、夜遅く帰宅して叱られたことなど懐かしい思い出です。勉強嫌いでやんちゃな長男を早く奉公に出そうということになったのだと思います。奉公先は京きょう橋ばしの自転車屋で、父が探してくれました。小学校のころ、近所の自転車屋で修理の仕事をみるのが好きで、おもしろそうだと思っていたので奉公の不安はなかったです。当時の自転車屋は注文で自転車をつくっていました。それを店内の壁際に飾るのですが、いまのように軽い自転車ではなく、高い所へ持ち上げる作業は、13歳の小僧には重労働でした。ただ、修理の仕事は楽しかったです。休みは月2回、銀座が近かったので休日が待ち遠しかったです。私は「藪やぶ入り」を経験しています。「藪入り」とは住み込みの奉公人が年2回(お正月とお盆)実家に帰れるという年中行事です。初めての「藪入り」では兄弟子の着物を借りて、鳥とり打うち帽ぼうをかぶって意気揚々と実家に帰りました。大みそかにはおかみさんが新しいジャンパーを買ってくれてうれしかったけれど、本当は自動車の整備工が着ているようなつなぎの服がほしかったと石井さん。話し上手で、その名調子につい聞き惚れてしまう。戦禍の時代を生き抜いて親方に鍛えられて自転車修理の腕は上達しましたが、奉公して4年ほど経ったとき、軍需工場に駆り出され、しばらく自転車の仕事から遠ざかることになりました。軍需工場のほうが奉公のときよりも賃金が高くて、その分を家に入れたら母が喜んでくれました。父は私が16歳のとき、47歳の若さで亡くなりました。1941年12月8日、ついに太平洋戦争が勃発、1943年4月に私も召集されました。入隊して4カ月間訓練を受けたあと、所属部隊は南方戦線と中国戦線にふり分けられ、私は中国戦線要員に選ばれました。南方戦線は激戦地でしたから、こちらにふり分けられたら生きて帰れなかったかもしれません。人の運命というものは不思議なものです。中国へは韓国の釜ぷ山さんから汽車で入りました。バンプウという街でした。その後は山腹にひそみ、敵軍の補給路を断つ任務につきました。石井サイクル店主石いし井い 誠せい一いちさん 石井誠一さん(102歳)は、13歳で自転車修理の修業を始めた。下町の風情が漂う住宅街の一角で、いまもなお現役で自転車修理の店舗を営む。「この仕事が大好きで、楽しくてたまらない」という石井さんが、90年の長い歳月を自転車修理ひとすじに歩いてきた、生涯現役で働く醍醐味を語る。104
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