エルダー2025年5月号
37/68

高齢者に聞くエルダー35だんだんと戦況が悪化するなか、手投げ弾で自爆した戦友もいましたが、1945年8月15日に終戦を迎え捕虜となりました。捕虜といっても私のいた部隊は、破壊された橋や建物などを修繕する仕事でした。終戦の翌年6月、引き上げ港として指定されていた山口県の仙せん崎ざき港へ上陸しました。そのとき私は、24歳になっていました。戦争の話をしながら、中国で苦労をともにした戦友の名前をすべてフルネームで語る石井さんの記憶力に圧倒された。「戦争は二度とごめんですか」と問うと、石井さんは黙ったまま大きくうなずいた。再び自転車修理の世界へ山口県からなんとか東京へ戻ったものの、当時母が暮らしていた小こ石いし川かわの家は跡形もなく、母が身を寄せていた叔父の家を訪ねました。ただ叔父が母に与えていた部屋があまりにもみすぼらしかったので、母を連れ出し、今度は世せ田た谷がやの父の兄を頼りました。この伯父は経理畑を歩いてきた温厚な人で、出征前の私もたいへんお世話になった人です。しばらく伯父が経理を担当している会社の仕事を手伝いました。あるときたまたま新聞で新橋の自転車屋が人を募集している記事を読み、さっそく出かけていきました。試験代わりということか、2台の自転車のハンドルやサドルの交換、リヤカーの太いタイヤの取りつけなどをいい渡され、7年ほどのブランクにひやひやしながらなんとか合格点をもらいました。その後、26歳で結婚。生活のために好条件の店に移ったり、自分で部品の売買をやってみたり、自転車を掃除する巡回訪問を手がけるなど、紆余曲折がありましたが、1956年に現在地に「石井サイクル」を開業、間もなく創業69年を迎えます。これまで私の親戚はもちろん妻の親戚にも世話になりました。そしてこの鐘かねヶが淵ふちに来てからは地域の人にずいぶん助けてもらいました。このあたりもずいぶん変わり、以前の活気もなくなりました。それでも親子3代で利用してくださっている人もいますし、一人暮らしを気遣ってくださる人もいて、いろんな街を転々として最後にここへたどり着けたことは幸せです。親戚の紹介で知り合った妻の千恵子さんが亡くなって34年になる。元気なときは一緒に日本各地を旅行し、海外にも足を伸ばした。「楽しい思い出も多いです」と石井さんが相好を崩した。生涯現役で好きな仕事を続ける喜び102歳の自転車屋が珍しいのか、よく聞かれるのが、「長い間仕事を続けていられる原動力は何ですか」ということです。そのたびに私は、「この仕事が好きだから」と答えます。自転車をいじっていられることが楽しくてたまらないのです。パンク修理やフレームのゆがみの修正など、仕事はいくらでもあります。自転車に関して、直せないものはないというのが90年この道を歩いてきた私の誇りです。ほかの自転車屋が直せなかった修理を頼まれることがあり、そういうときは年がいもなく意欲がわいてきます。いまはパンク修理のお客さんが多いですが、ブレーキの不具合は必ず点検しています。お客さんの命を預かる仕事だから手抜きはできません。妻を早くに亡くして、一人暮らしにも年季が入っており、洗濯は毎日欠かしません。食事は大体1日2食、朝はトースト、夕食は宅配弁当が中心ですが、炊き込みご飯やおかずを届けてくれるご近所さんがいてありがたいことです。店の2階で寝起きし、朝7時には店に降り、夕方6時ごろまで開けています。休みは日曜日だけ、正月三が日以外は自転車に触れています。一男一女に恵まれ、孫やひ孫が8人おり、みんなに会うのは楽しみですが、何よりの楽しみは週に一度のカラオケです。自転車でなじみの店に出かけ仲間に囲まれながら大好きな北島三郎を歌うときが至福の時間です。もう少し長らえて、早逝した父や妻の分まで人生を楽しみ、市しせい井の自転車屋として生涯現役を貫こうと思います。

元のページ  ../index.html#37

このブックを見る